伊東貫斎(いとうかんさい) 文政9年5月19日〜明治26年7月28日(1826-1893)
蘭方医。医学所取締で明治政府大典医。名、盛貞。字、文仲。号、貫斎。父、武蔵総社六所宮神官織田筑後猿渡盛徳(二男)。武蔵国府中出身。江戸・長崎で学ぶ。弘化2年(1845)緒方洪庵に師事。嘉永5年(1852)「適塾」に入る。嘉永6年(1853)伊東玄朴の娘婿となる。安政2年(1855)7月紀州和歌山藩医。同9月幕命により伊豆下田詰となり、ハリス登城の際医務・翻訳を勤める。翌年ハリスの病を治し名声があがる。同年7月奥医師。のち法印。瑶川院と名乗る。万延元年(1860)種痘所設立に参加。文久元年(1861)西洋医学所教授。明治3年(1870)大典医。明治5年(1872)権大侍医。明治10年(1877)3等侍医。明治16年(1883)退職。十三代将軍徳川家定が病気になったとき当時オランダ医学がご禁制だったので漢方医が奥医師となり治療したが好転せず、大老井伊直弼が蘭方医に診せることを決め、オランダ医学禁制を解き、伊東玄朴と戸塚静海を奥医師とした。さらに、伊東貫斎、林洞海(1813-1895)、坪井信良(1825-1904)が追加された。家定は、この甲斐なく安政5年(1858)に逝去。著書:「遠西方彙」、「眼科新篇」、「日用方叢」など。
※ 漢学者に同名異人がいる。各暦年には資料により違いがみられる。
※ 妻は、伊東玄朴(長春院)の長女。「鏡台院」。正面「伊東貫斎孺人」。同墓域にある。
墓は、乙4号1側。乙4号は、1側〜6側まで高地低地の2セットあり、高地(上)側。ただし、伊東墓は数基あるが貫斎の墓碑には「従五位伊東盛貞君墓銘」とある。従一位勲一等伯爵東久世通禧(ひがしくぜみちとみ:1834-1912)篆額。永井醇謹撰。貴族院議員錦鶏間祗候金井之恭(かないゆきやす:1833-1907)書。
左側面
「孺人諱某釈謚鏡台院侍医法印伊
東長春院之嫡女侍医法眼伊東貫
斎之孺人也生男雄一郎女三喜以
文久紀元辛酉九月十一日病殉享
齡三十有二
文久二壬戌九月 孝子 伊東雄一郎建之」