伊藤圭介(いとうけいすけ/いとうけいかい)    享和3年1月27日〜明治34年1月20日(1803-1901)

    江戸幕末・明治期の植物学者・理学博士・男爵。名、舜民のち清民。号、錦?。江戸呉服町生まれ尾張藩名古屋出身。父、名古屋の医師西山玄道(次男)。父や兄大河内存真らに医学を学ぶ。水谷豊文(1779-1833)に本草学を学ぶ。18歳で医師の資格を得て、文政4年(1821)京都で藤林泰助に師事し洋学を学ぶ。また、吉雄常三にも洋学を学ぶ。文政10年(1827)長崎に遊学、シーボルトに学ぶ。シーボルト帰国時にもらった「日本植物誌」を参考にリンネの植物分類法を抄訳し紹介「泰西本草名疏」を文政12年(1829)刊行、二名法を日本にはじめて紹介。文久2年(1862)幕府の命により江戸に出て蕃所調所に出仕。翌年物産局教授となる。明治10年(1877)東京大学理学部員外教授となり、小石川植物園の基礎をつくる。明治14年(1881)教授。明治13年(1880)にはストックホルム王立学士院から銀杯を贈られる。明治20年 (1887)に学位令が制定され文部大臣が博士学位制度をつくり、明治21年(1888)法学博士・ 医学博士・工学博士・文学博士・理学博士の五種類のカテゴリーを設けた。同年5月7日に誕生した最初の博士は、25人である。このときの理学博士5人の一人に伊藤圭介がいる。他の4人は、長井長義(1845-1929)・矢田部良吉・山川健次郎(1854-1931)・菊池大麓である。明治34年功績に対し学者として初めて男爵を授けられた。日本の植物学の祖となる。本郷真砂町の自宅で病没。99歳。従四位勲三等。贈東大名誉教授。著書:「日本産物志」「小石川植物園草木図説」など多数。

墓は、谷中霊園乙8号6側。木々に囲まれて暗い中にある。正面「従四位勲三等理学博士男爵伊藤先生墓」。