河鍋暁斎(かわなべぎょうさい) 天保2年4月7日〜明治22年4月26日(1831-1889)
画家。幼名、周三郎。名、洞郁。字、陳之。別号、周麿・狂斎・酒乱斎・画鬼。下総国古河(しもうさのくにこが:茨城県古河市)出身。母は幼い暁斎の絵に対する才能を認め、7歳のとき浮世絵師の歌川国芳(うたがわくによし:1797-1861)の門下とした。のち狩野派前村洞和(?-1841)、駿河台狩野派洞白陳信(とうはくのりのぶ)に入門する。嘉永2年(1849)19歳で師より「洞郁陳之(とういくのりゆき)」の号を得る。師の洞白が亡くなると狩野派を離れ、安政5年(1858)独立して本郷で開業、このころより戯画・狂画を描き始め、「狂斎」と号する。しかし、明治3年(1870)上野不忍弁財天境内での席画会で、酔って描いた長だ亭の席画諷刺戯画が問題視され、逮捕・投獄される。翌年放免となるが、以降、「狂」の字を改め、号を「暁斎」とした。また、修善寺温泉で知り合った沼津の女性宇田しんと結婚。しんとの間に宇田竜蔵(俳号・雨柳)が生まれる。その後明治14年(1881)第2回内国勧業博覧会に「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」を出品、一等賞なしの妙技2等賞(最高賞)を受賞し、画壇での地位を確立する。ベルツに"日本最大の画家"と称賛される。また、自ら暁斎に弟子入りしたジョサイア・コンドルら外国の美術愛好家によって一千点を越す暁斎の作品が海を渡り、世界各地の美術館に収蔵され、葛飾北斎同様に高い評価をうけている。晩年は、根岸(東京都荒川区東日暮里)に住み、区内の寺院や料亭に数点作品が残っている。明治22年(1889)胃癌のため59歳で没する。二男に弟子の河鍋暁雲、娘に日本画家の河鍋暁翠がいる。著書:「狂斎百図」、「暁斎漫画」、「暁斎画談」など。
※ ひ孫の手により、昭和61年(1986)埼玉県蕨市に「河鍋暁斎記念美術館」が設立された。
河鍋暁雲(かわなべぎょううん) ?〜明治41年8月4日(?-1908)
日本画家。名、周三郎。父、河鍋暁斎(二男)。作品:「鷹図」、「百布袋之図」など。
河鍋暁翠(かわなべぎょうすい) 慶応4年12月10日〜昭和10年5月7日(1868-1935)
日本画家。名、とよ。父、河鍋暁斎(長女)。東京本郷出身。父に日本画の手ほどきを受け、明治17年(1884)第2回内国絵画共進会、明治23年(1890)第3回内国勧業博覧会で、入選するとともに、明治32年(1899)「能楽図絵」、明治33年(1900)「謡曲訓蒙図絵」などを手がける。父の暁斎風とは異なり、近代的で穏和な画風による美人画などを制作する。日本美術協会会員で、明治29年(1896-1902)東京女子美術学校(現女子美術大学)日本画科教授となり後進の指導にあたる。昭和10年(1935)5月7日出稽古先の国府津で歿。67歳。
墓は、瑞輪寺(谷中4-2-5)塔中正行院(瑞輪寺墓地内にあるが正行院が管理)。墓石は、自然石を重ねており、一番上の石は蛙をかたどったものとなっている。山門より入り左手の前方奥。案内表示がしっかりしているのでわかり易い。河鍋暁斎:「本有院如空日諦居士」。河鍋暁雲:「麗光院暁雲日容信士」・河鍋暁翠:「文法院妙聞日豊大姉」。