菊池海荘(きくちかいそう) /垣内海荘 寛政11年〜明治14年1月16日(1799-1881)
江戸の豪商で詩人。名、保定。字、子圃。号、渓琴(谿琴)。通称、孫助・孫左衛門。別名、垣内海荘。父、豪農垣内孫左衛門淡斎。紀伊栖原(和歌山県有田郡湯浅町)出身。兄が仏門に入ったので家業の砂糖・薬問屋を江戸で営む。文学を好み、江戸へ出て大久保天民に詩学を学ぶ。故郷に古碧吟社を創設。天保飢饉時に私財を投じ、坂の改善・港の修復など失業対策事業で窮民を救済する。海防・殖産にも尽力。大坂の飢饉では、大塩平八郎と救済策を建議したが要れられず有田の故郷に帰る。明治2年(1869)有田・日高2郡の文武総裁となり、農兵を組織。慶応年間に大原重徳を頼り国政意見を上陳。有田郡民生局副知事。郷学所を創り養蚕・製茶に貢献する。辞職後東京に移る。渡辺崋山(1793-1841)、佐久間象山(1811-1864)、大塩平八郎(1793-1837)らと親交を結び、国内、世界の情勢に通じていた。83歳。著書:「国政論」、「内政論」、「農政私議」、「渓琴山房集」、「海荘集」など。養子に菊池菊崖がいる。その第2子で漢学者・詩人の菊池三九郎(1859-1923)の墓は、多摩霊園2区1種4側16番にある。
碑は、天王寺墓地。甲9号17側通路奥右側。さくら通り沿いに道標(写真)があり「これより左百歩」とある。本人の墓は碑と兼用か。墓碑には、三条実美の篆刻がある。