衣笠豪谷(きぬがさごうこく) 嘉永3年7月〜明治30年4月26日(1850-1897)
日本画家。本姓、大橋縉侯。字、薫明・紳卿。号、豪谷・天桂山人・豪渓・白楽村農。母の姓衣笠を名乗る。岡山県倉敷出身。11歳で詩画を石川晃山に学ぶ。のち、本城梅屋に書を、森田節斎・坂谷朗谷に学問を習う。慶応2年(1866)江戸に出て講武所で操銃を習いながら、市川万庵に書を、大沼枕山に詩を、佐竹永海・松山延州に画を学ぶ。また京都で中西耕石に師事。明治7年(1874-1876)清国に遊学し、南南宗画・六書を研究、養鶏法にも興味を持ちその勉強に熱中する。帰国して勧農局・内務省・農商務省に勤務する傍ら、「清国式孵卵図解」を著わし新しい孵卵法の普及につとめた。また、耐火煉瓦の研究・水蜜桃の栽培など清国の産業をわが国に移植することにも尽力。明治25年(1892)退職してから南画をよく描いた。また、山が好きで、山に登り写生し粉本にした。明治17年(1884)創設された「東洋絵画会」の学術委員。明治30年(1897)川村雨石・高橋砕巖・菅原白龍らと「日本南画協会」を創立。48歳。作品:「豪谷の真景」。著書:「清国式孵卵図解」、「読課余録」、「清国地誌」、「狩猟図説」、「本邦墨林今話」、「西泛帰録」、「欽定授時通考」、「農時有功伝」など多数。
墓は、谷中霊園 甲6号左15側。子爵品川彌二郎篆額の墓碑。正面「豪谷衣笠君碑」。