高斎単山(こうさいたんざん)    文政元年〜明治23年6月13日(1818-1890)

    江戸末期から明治期の書家。名、有常。字、子恒。通称、精一。号、単山・三余堂。落款は、単山常。父、滝沢友七。田安家家臣高斎清兵衛の養子となる。巻菱湖に書を学び、菱湖没後は萩原秋巌に師事、晋・唐の諸礼を究め一家をなす。頼山陽に認められる。寛永寺30余坊の僧侶を指導。大沼枕山の隣りに住み、三枚橋畔両名山と称される。明治3年(1870)秋発行の「書家番付」の大家・名家欄には萩原秋厳、服部随庵、関雪江、柳田正斎、市河萬庵、山内香溪、樋口逸斎、高斎単山、高林二峯、永井盤谷、松本董仙らの名前がある。書は、幼いころから父から学び、長崎で清人(中国人)に師事したらしい。門下に徳川家達・伊達本家・真田・小笠原の大名・書家説文学研究家の高田竹山(たかだちくざん:1861-1946)らがいる。明治の英国外交官アーネスト・サトウは、書道の師である高斎単山から「静山」という号をもらったという。73歳。

墓は、天王寺墓地。最も北側。谷中霊園甲12号との境。碑は、門人金田正誠の撰文、高田忠周(たかだただかね:竹山)の書。

※ 金田正誠(?〜明治30年1月29日)墓は、了ごん寺墓地奥の塀際より1本手前にある。正面「至誠院殿真如学山居士/錦恕院殿貞房妙観大姉」。