松平清武(まつだいらきよたけ)    寛文3年10月20日〜享保9年9月16日(1663-1724)

    館林藩初代藩主。第6代将軍徳川家宣の弟。父、甲斐甲府藩主徳川綱重(つなしげ)(庶子)。母、側室お保良の方(長昌院)。第3代将軍徳川家光の孫で第4代将軍徳川家綱、第5代将軍徳川綱吉の甥に当たる。越智松平家初代。名、熊之助のち平四郎・吉忠・清宣・清武。徳川綱重が関白左大臣二条光平の娘を正室として迎えたので、気を遣って側室お保良の方と一子綱豊を国家老の新見備中守に預けたが、その後もお保良の方のもとを訪れたが、お保良の方が懐妊してしまったので、家来の越智与右衛門の妻としてしまった。お保良の方は越智家で次男「清武」を産み、その翌年28歳で没し、専光院殿として善性寺墓地に葬られた。延宝8年(1680)5月28日越智家300石を家督相続。何度かの加増があり宝永4年(1707)松平姓を許され、上野国館林藩初代藩主となる。清武は、他の松平氏との混同を避ける為に「越智松平」と称した。いろいろあって、突然宝永6年(1709)に、無印の兄家宣が6代将軍に就任すると、寄合衆に任じられた。そして、急きょ将軍の弟という立場となった。専光院殿も将軍の御生母となり、墓も善性寺墓地から、寛永寺御台所様墓地(離れ)に長昌院殿と法名も付け直されて移された。正徳2年(1712)兄家宣の死去による遺言で加増を受け、5万4000石の大名となった。

墓は、善性寺墓地(東日暮里5-41-14)。山門より入り、右側の墓地。本堂に向かって本堂の右角の付近。正面「本賢院従四位下行侍従弘毅斎墓」。「本賢院養意日覚居士」。墓碑周囲に来歴が書かれている。内容は、下記のとおり。

弘毅斎姓源松平氏諱清武右近衛将監桜邸之支子也母贈従一位長昌院殿大夫人以寛文三年癸卯十月二十日生初有故養於越智氏後奉命復姓為上野国館林城主享保九年甲辰九月十六日病卒享年六十有二葬于谷中善性寺

松平清武墓碑の左隣りに自然石型の越智松平家(浜田松平家とも)の合祀墓(松平家諸霊の墓)があり、6代藩主松平武揚以外の全当主ほか、正室・婦女子の43霊が埋葬(昭和35年改葬)されている。ご住職のご説明では、墓碑まわりに立てかけてあるような墓誌は、JRの線路や道路拡張の際に移設したときに掘り出されたもののうち、破損していないものを並べたという。全体が凹凸の2種類あるのは、貝のように組み合っていたもの。掘り出されたご遺体は、深く埋められ松脂で封印されていて乾燥もせず生々しかったという。移設の際に、町屋葬儀場で焼却したが、窯に入らず、一度持ち帰って小型の棺に入れ直したという。裏面には改葬の経緯が記されている。

松平武雅(まつだいらたけまさ)      元禄15年〜享保13年(1705-1728)・・・1702/1703説あり。

     館林藩2代藩主。初名、行高のち新之助・多宮・内記。父、松平義行(二男)。母、上月氏。美濃国高須出身。享保9年(1724)清武の養子となり、将軍徳川吉宗に拝謁し、遺領を継ぐ。従五位下、肥前守。24歳。「顕徳院殿恭斎居士」。

松平武元(まつだいらたけもと)     正徳4年12月18日〜安永8年7月25日(1713-1779)・・・1714説あり

     館林藩3代藩主。初名、武元のち源之助。父、松平頼明(二男)。母、久野氏。享保13年(1728)武雅の養子となり遺跡を継ぐ。陸奥棚倉(福島県)に移封。5万4000石。16歳のとき将軍徳川吉宗に拝謁。享保14年(1729)従五位下右近将監。元文4年(1739)奏者番。延享元年(1744)寺社奉行。延享3年(1746)従4位下となり、再び館林に移される(このため初代にリセットする説もある)。延享4年(1747)侍従。明和6年(1769)6万1000石となる。67歳。室は、松平忠雅の娘。「大超院殿勇山居士」?。

松平武寛(まつだいらたけひろ)     宝暦4年10月7日〜天明4年3月26日(1754-1784)

     館林藩4代藩主初名、久五郎。父、松平武元。明和5年(1768)15歳で将軍徳川家治に拝謁。従五位下主計頭。安永8年(1779)相続を襲封。右近将監。安永9年(1780)奏者番。天明3年(1783)の大飢饉では、救済に尽力する。室は、松平頼恭の娘。「大隆院殿恒山居士」。

松平斉厚(まつだいらなりあつ)     天明3年9月26日〜天保10年11月5日(1783-1839)

     館林藩5代藩主・石見浜田藩初代藩主。初名、久五郎・武厚。父、松平武寛(長男)。2歳で家督を相続。奏者番兼寺社奉行。将軍徳川家斉の20男松平徳之佐(のち斉良)を養嗣子とし、家斉の一字を賜り斉厚と改名。天保7年(1836)石見国(島根県)に移封となる。斉良が夭折したため、讃岐高松藩から松平武揚を婿養子とした。従四位上権少将。

松平武成(まつだいらたけなり/たけしげ)     文政8年7月3日〜弘化4年9月20日(1825-1847)

     館林藩7代藩主。父、松平義建(三男)。母、徳川治紀の娘。正室、田安徳川斉匡の娘。天保13年(1842)先代松平武揚が16歳で没した(墓は島根県浜田市妙智寺)ため、その養嗣子として後を継ぐ。藩財政再建に尽力する。「鋭岳大憲院」。

松平武聰(まつだいらたけあきら)     天保13年1月26日〜明治15年11月7日(1842-1882)

     館林藩8代藩主。初名、十郎麿・昭音・武聡。父、水戸藩主徳川斉昭(10男)。母、側室山野辺義貫の娘。正室、堀田正睦の娘。徳川慶喜は、異母兄弟となる。弘化4年(1847)先代藩主松平武成の末期養子として家督を相続。安政元年(1854)従四位下侍従、右近将監。幕末は、佐幕派として行動、慶応2年(1866)第2次長征に参加するも、武聡は病気で、浜田軍は敗退。結局浜田藩の飛び地の鶴田に逃れ、城代家老尾関隼人の切腹で藩は存続し鶴田藩主となる。版籍奉還で鶴田藩知事となるが、廃藩置県で免職。明治6年(1873)隠居し、長男武修に家督を譲る。41歳。「明達日俊高徳院」。

松平武修(まつだいらたけなが)     (?-?)

     従五位・子爵。父、松平武聡(長男)。子爵に列する。

ほかに、石見浜田藩の世嗣だった徳川家斉の20男(実24男)松平斉良(まつだいらなりよし:1819.10.24-1839.6.22)。母、皆春院。「大智院殿晃由大居士」