御台所様墓地(みだいどころさまぼち)/徳川御婦人墓地/徳川妻妾墓地
谷中霊園の中で最大の墓域であります敷地、2,000坪に及ぶ石囲(石塀)の中にある。正式な名称ではないようだ。現在発掘調査および整備工事のため見学はできない。下記は、工事前の状態であるので、工事後には全てなくなって、長昌院墓地跡に移設される予定。
太字は大型墓。
墓は、寛永寺谷中墓地。阿部正弘墓域の東側。
宝樹院 3代将軍家光側室
4代家綱生母
元和7年〜承応元年12月2日(1621-1652)
父、朝倉惣兵衛。下野国都賀郡高島村の農民であったが、
江戸に出て旗本朝倉才三郎に奉公、侍に取り立てられ名を改める。
のち、一色庄右衛門と改めるが、禁猟の鶴を捕って売り死罪となる。
本名、お蘭。別名、お楽の方・高島御前
宝樹院殿華城天栄大姉
青木三太郎利長の二女。母、織部某の娘。はじめ"お蘭"という。母と共に立花忠茂夫人に仕えていたが、夫人の没後、父大澤作左衛門清宗(一色庄右衛門)の浅草の仮宅に居たとき、寛永10年(1633)ころ浅草寺参詣の折に春日局に見染められ、"紫"と称して3代将軍徳川家光の侍妾となる。のち"お蘭"と改める。寛永18年(1641)8月3日竹千代(4代徳川家綱)を生み、産後に"お楽の方"と呼ばれる。従三位となる。家光没後、宝樹院御方と称す。慶安5年(1632)5月伊香保に湯治に行き12月に没する。32歳。承応2年(1653)11月24日正二位が贈られる。「宝樹院殿従三位華城天栄大姉」。昭和60年(1985)の映画大原麗子主演の「花のこころ」では、お楽の方が側室の掟を破って逃走、悲運の死を遂げた、という筋書きになっている。弟に、増山弾正忠正利・那須資弥(すけみつ)・妹は、高家品川式部大夫高安の正室。
※ 徳川家光は、男色気があり、女性に興味がなく世継を心配した春日局が、魅力ある女性を物色していたという。
順性院 3代将軍家光側室
甲府宰相・徳川綱重の生母
元和8年〜天和3年7月29日(1622-1683)
6代将軍徳川家宣の祖母
お夏 父は京都の町人
下級職だったが「御湯殿」役時に家光の手がつき懐妊
「順性院殿妙喜日円大姉」
紅玉院 甲府宰相綱重(3代将軍家光3男)継室
徳川綱重の正室隆崇院が没した後、隆崇院の父二条光平が、
綾小路俊景の娘紅玉院を養女にし、紅玉院はさらに綱重の
嫡母に当たる3代将軍家光室本理院(鷹司孝子)の養女となって
綱重の継室になった。
高厳院 4代将軍家綱正室
伏見宮貞清親王の姫、母は宇喜田秀家娘
寛永17年〜延宝4年8月5日(1640-1676)
浅宮顕子(あきこ)37歳没
母姉に安宮照子女王(紀州・徳川光貞室)、姪に真宮理子女王(徳川吉宗正室)がいる。
徳川家としてははじめての皇族出身の正室
巌院(こうげんいん)殿従一位月潤円大姉 または清大姉
明暦3年4月14日江戸に下り、天樹院の屋敷に入る。7月10日4代将軍家綱と西の丸にて婚儀。西の丸に住む。万治2年(1659)本丸へ移る。延宝元年(1673)従三位。延宝4年(1676)乳がんとなったが、糸脈では診察ができず、家綱が直接診察を受けるように勧めるが、"簾外の者に対面するのは、公方家の礼を乱す"として拒否し没する。
寿光院 5代将軍綱吉側室
権大納言清閑寺煕房の娘
大典侍・北之方 大典侍(おおすけ)の局
?〜寛保元年10月10日(?-1741)
寿光院殿印月恵海大姉
大奥では鶴姫と徳松の生母であるお伝の方と、綱吉の生母桂昌院が共に絶大な権勢をふるっていた。綱吉の正室鷹司信子(浄光院)はそれを苦々しく思い、お伝の方から綱吉の気を引き離すため、宮中から学問に秀でた女官常盤井を御台所付上臈御年寄として奥入りさせた。案の定綱吉の寵愛を受けて大奥総取締に任命され、「右衛門佐」と改名。すると、綱吉の気が右衛門佐に集まるのを面白くない桂昌院やお伝の方は、柳沢吉保と謀って対抗馬の大典侍(おおすけ)を京より呼び寄せ、三の丸に入り桂昌院に仕えさせる。ほどなく綱吉の目にとまり寵愛を受け北の方と呼ばれる。綱吉は、学問の相手には右衛門佐を、遊びには大典侍を相手にする。綱吉没後は、大典侍は落飾し、寿光院と称し、馬場先御用屋敷に住むが、のち浜御殿で没する。
俊覚院 6代将軍家宣の4男
虎吉
母、お須免の方(蓮浄院)・・・下記参照
正徳元年〜正徳元年(1711-1711) 数え1歳
俊覚院殿霜岸智英大童子
浄円院 徳川光貞側室
8代将軍吉宗生母
紀州の家来巨勢伊豆守六左衛門利清の長女 紋(または紋子)。実は巨勢村の農家の出。
母、大覚寺宮の家司壷井源兵衛義高の娘
明暦元年〜享保11年6月9日(1655-1726)
於由利の方
浄円院殿禅台知鏡大姉
紀伊和歌山城に奉公に上がって御湯殿掛となり徳川光貞のお手付きとなる。貞享元年(1684)10月21日源六(吉宗)を生む。光貞没後は落飾して浄円院と称していたが、吉宗が将軍職を継いだため、享保3年(1718)3月15日石川近江守を正使に、留守居朽木周防守則綱など数百人を揃えて生母を迎えに遣わし、同年5月1日二の丸に入る。品川への使者は、加納遠江守久通ら。将軍生母として恵まれた余生を送る。弟忠善の子至信は、5000石に、末弟由利も5000石となる。宝暦13年(1763)5月1日従二位が贈られる。
證明院/増子女王/姫宮 9代将軍家重正室
伏見宮邦永(くになが)親王の第4皇女 比之宮(なみのみや) 増子/培子(ますこ)姫
徳川吉宗の正室理子女王は、叔母にあたる。
正徳元年10月19日〜享保18年10月3日(1711-1733)
享保16年(1731)21才で輿入するも、2年後23才で病没
贈従二位
證明院智岸眞惠大姉
享保16年(1731)徳川吉宗嗣子徳川家重と西の丸において結婚。享保18年(1733)9月男子を産むが早産で子は間もなく死去。増子も経過が思わしくなく、御台所になるのを待たずに10月に没する。23歳。増子が江戸城に入ったときに詠んだ歌 "ここのへの色も変わらで東なる 御園に咲きしなでしこの花"。享保17年(1732)家重と船で隅田川を遊覧したときに詠んだ歌。 "おもひなき身にしあれども故理の名もなつかしき都鳥かな"。
至心院 9代将軍家重側室
10代将軍家治の生母
権中納言梅渓通条の娘幸子
?〜延享5年(?-1748)
お幸の方/お幸の局
贈従二位。
至心院殿贈二位浄智蓮生大姉/観真円如大姉
享保16年(1731)証明院に従い江戸に下り、享保20年(1735)大奥の上膓を務める。のち、家重の側室となり元文2年(1737)竹千代(10代将軍徳川家治)を生み、寛保元年(1741)二の丸へ移る。さらに延享2年(1745)本丸へ移る。一方の側室であるお遊喜の方が、家重の次男万次郎(のちの清水重好)を出産してから側室同士の争いがはじまり、1年近く座敷牢に閉じ込められる。徳川吉宗の知るところとなり開放されるが、間もなく没する。
心観院/五十宮倫子 10代将軍家治正室
閑院宮直仁親第6王女
倫子女王(ともこじょうおう) 幼名、五十宮(いそのみや)
元文3年1月20日〜明和8年8月20日(1738-1771) 35歳。
宝暦4年(1754)入輿以降は「御簾中様」と称された。
贈従一位
心観院殿従二位浄池蓮生大姉
寛延2年(1749)江戸に下り、宝暦4年(1754)17歳のとき将軍徳川家重の嗣子徳川家治と西の丸で結婚。同年千代姫(2歳で早世)を生む。家治が将軍となると宝暦10年(1760)本丸に移り、御台所と称す。宝暦11年(1761)万寿姫(13歳で早世)を生む。
香淋院 11代将軍家斉側室
12代将軍家慶生母
?〜文化7年5月20日(?-1810)
押田藤次郎敏勝(小姓組番士)の3女
母、敏勝の養父吉次郎勝久の養女で、大野伝蔵久豊の3女
本名、押田らく。のち於楽の方/お羅久の方/お里衛(りえ)の方
香淋院殿正諦映心大姉
江戸出身。天明7年(1787)7月29日大奥に奉公。10代将軍家治の養女種姫に仕え、御中臈となる。同年種姫の紀伊治宝との輿入れに従ったが、2年後の寛政元年(1789)呼び戻され、本丸御中臈に復帰。寛政3年(1791)11代将軍家斉の侍女となり、"里衛"と名乗る。寛政5年(1793)5月14日敏次郎(のちの徳川家慶)を生み、御中臈主座となる。ついで御年寄上座となる。45歳で没したとの説がある。
貞明院 12代将軍家慶6女
田安慶頼の婚約者
暉姫(てるひめ)
文政9年5月14日〜天保11年5月8日(1826-1840)
母、菅谷平八郎政徳の娘 お波奈の方
疱瘡(天然痘)で早逝
「貞明院殿華月清蓮大姉」。
天保10年(1839)13歳で田安徳川家5代当主徳川慶頼との縁組が決まったが、翌年未婚のまま死去。13歳。正室や生母でもないのに大きな墓。未婚であったが、婚約していたということで正室扱いになったものと思われる。平成19年(2007)10月に改葬されているが、内容不明。
浄観院 12代将軍家慶正室
有栖川宮一品中務卿織仁(たかひと)親王第7王女
母、尾崎積典の娘 侍妾の常盤木
寛政7年〜天保11年(1795-1840)
幼名、楽宮(さざのみや)喬子(たかこ)
竹千代・儔姫・最玄院(夭逝)の生母
贈従二位
浄観院殿慈門妙信大姉
文化元年(1804)徳川家慶との婚約が整い江戸へ下向。文化6年(1809)結婚。文化10年(1813)竹千代(早世)を生む。文化12年(1815)2月儔姫(下記参照)を生む。文化13年(1815)10月最玄院を生むが即日死亡(下記参照)。46歳。
本寿院 12代将軍家慶側室
13代将軍家定生母
幕府旗本御書院番頭備前守に属する番衆右の跡部茂右衛門正賢(正寧とする説あり)の娘
文化4年〜明治18年(1807-1885)
於美津の方 堅子
家定・春之丞・悦五郎生母
本寿院遠常妙堅大姉
文政5年(1822)16歳のとき西の丸御次として大奥に仕え、翌年御中臈となり、家慶の寵愛を受ける。文政7年(1824)政之助(徳川家定)を生む。文政9年(1826)春之丞(早世)を生む。文政11年(1828)老女上座となる。同年悦五郎(早世)を生む。嘉永6年(1853)家慶没後は落飾し"本寿院"と称したが、将軍家生母として本丸に住む。慶応4年(1868)江戸城無血開城により、天璋院と共に一橋邸に移る。家定は、言葉は不明瞭で、母だけがよく聞き取ったことから、自ずと実権を持ち、大奥だけでなく政にも関与することになった。水戸家嫌いで将軍継承問題では、紀州を推し、篤姫と対峙した。
澄心院 13代将軍家定継室
関白一条忠良の姫 一条秀子(寿明姫)/明宮秀子(あけのみやしゅうこ)
文政9年〜嘉永3年(1826-1850)
嘉永2年輿入、翌年25歳で没
贈従二位
澄心院殿珠現円照大姉
病弱であった上に大奥になじめず僅か半年余りで没する。秀子は背が低く、籠から首がやっと出る程度だったという。また、襖の引き手より下に頭があったとも言われる。当時将軍の室が相次いで死んだことから、「死にたければ将軍の室になれ」という言葉が流行った。その後の継室は、薩摩藩島津忠剛(ただかね)の娘、島津斉彬養女篤姫(あつひめ)、つまり天璋院である。天璋院の葬地は寛永寺二のお霊屋。因みに最初の正室は天親院殿任子(ただこ)−有君(ありぎみ)で芝増上寺に墓がある。
実成院(じつじょういん) 紀州藩主徳川斉順(11代将軍家斉の7男)の側室
14代将軍家茂生母
御三家紀州藩の高家松平六郎右衛門晋の姫
文化4年1月18日〜明治37年11月30日(1821-1904)
美佐(みさ)、操子、美喜、於美喜の方
実成院殿清操妙壽大姉
紀州大納言斉順の妾となり、弘化2年(1845)懐妊したが、斉順は、その出生を待たずして弘化3年(1846)に没する。お美佐は、落飾し"実成院"と称する。弘化3年(1946)菊千代(慶福)を生む。安政5年(1858)慶福が将軍嗣子となり、家茂と改名する。翌年お美佐は、将軍生母として本丸大奥に入り、七宝の間に住む。何事も派手で酒好きで、毎日のように酒宴を催し乱痴気騒ぎをして、悪評が高かったという。江戸城開城により家茂の正室静寛院宮(和宮)と共に田安家の屋敷に移る。没後、寛永寺に葬られたが、のち、寛永寺谷中墓地の御台所様墓地に改葬される。
松月院 16代宗家徳川家達の長女
母、泰子?
?〜明治22年5月27日(?-1889)
松月院影光妙智大童女
齢集院 徳川家光(大猷院)の三男 徳川鶴松
母、ありさの方(定光院)
?〜慶安元年(?-1648)
昭和13年芝区西久保天徳寺から改葬される。
沖縁院 11代将軍徳川家斉の5女 格姫
母、お里尾の方
?〜寛政11年(1799)
沖縁院殿明相馨信大童女
徳川家合祀墓 子女45霊
昭和9年(1934)に凌雲院より個別の子女墓をまとめて移転したもので、新しく作られた合祀墓で全45霊が祀られている。その45霊の名は、五輪塔地輪の4面に全て列記刻まれている。内容は、下記のとおり。
徳川源三 徳川吉宗(4男) 「涼池院殿霊岸智到大童子」
生母、側室 お久の方(深心院)
享保4年3月14日〜享保4年5月6日(1719) ゼロ歳
徳川貞次郎 徳川家治(二男) 「崇善院幻如惺覚大童子」
生母、側室 お品の方(養蓮院)
宝暦12年12月19日〜宝暦13年3月16日(1762-1763) ゼロ歳
千代姫 徳川家治(長女) 「華光院円常清芳大童女」
生母、正室 倫子(心観院)・・・上記参照
宝暦6年7月21日〜宝暦7年4月12日(1756-1757) ゼロ歳(数え年では2歳)
端正院 徳川家斉(三男) 「端正院真徳智契大童子」
生母、側室 お梅の方(真正院)
寛政6年5月9日(1794) 即日死
徳川豊三郎 徳川家斉(5男) 「良元院性体円明大童子」
生母、側室 お歌の方(宝池院)
寛政10年(1798) 1歳。
法如院 徳川家斉(8男) 「法如院性相玄常大童子」
生母、側室 お美尾の方(芳心院)
享和2年7月5日(1802) 死産
真空院 徳川家斉(11男) 「真空院幻區覚夢大童子」
生母、側室 お登勢の方(妙操院)
享和3年5月9日(1803) 死産
徳川時之助 徳川家斉(12男) 「天淵院殿覚湛真性大童子」
生母、側室 お蝶の方(速成院)
享和3年8月1日〜文化2年9月14日(1803-1805) 数え3歳。
徳川友松 徳川家斉(14男) 「了湛院殿真善元大童子」
生母、側室 お蝶の方(速成院)
文化6年2月21日〜文化10年6月2日(1809-1813) 数え5歳。
徳川奥五郎 徳川家斉(18男) 「常境院殿良智憬円大童子」
生母、側室 お八百の方(智照院)
文化10年10月2日〜文化11年4月4日(1813-1814) 数え2歳。
瓊岸院 徳川家斉(2女) 「瓊岸院妙蓮池浄育大童女」
生母、側室 お万の方
寛政2年(1790) 生後2日で没する
総姫 徳川家斉(6女) 「棲真院智宝妙薫大童女」
生母、側室 お志賀の方
寛政8年〜寛政9年(1796-1797) 数え2歳。
五百姫 徳川家斉(7女) 「蛍光院理善普照大童女」
生母、側室 お歌の方(宝池院)
寛政11年〜寛政12年(1799-1800) 数え2歳。
亨姫 徳川家斉(8女) 「唯乗院殿諦理明真大童女」
生母、側室 お蝶の方(速成院)
享和元年4月22日〜享和2年6月4日(1801-1802) 数え2歳。
晴姫 徳川家斉(12女) 「晃耀院理玄明性大童女」
生母、お登勢の方(妙操院)
文化2年12月4日〜文化4年5月12日(1805-1807) 数え3歳。
高姫 徳川家斉(13女) 「円j院殿宝乗真善大童女」
生母、側室 お八千の方(清昇院)
文化3年3月1日〜文化3年7月23日(1806) ゼロ歳。
岸姫/安姫 徳川家斉(14女) 「精純院殿楊彩周善大童女」
生母、側室 お袖の方(本性院)
文化4年11月14日〜文化8年7月27日(1807-1811) 数え5歳。
艶姫 徳川家斉(17女) 「法量院殿寂照軌玄大童女」
生母、側室 お袖の方(本性院)
文化8年1月22日〜文化8年6月30日(1811) ゼロ歳。
孝姫 徳川家斉(20女) 「淳脱院殿厳惺映顕大童女」
生母、側室 お袖の方(本性院)
文化10年1月23日〜文化11年7月21日(1813-1814) 数え2歳。
琴姫 徳川家斉(23女) 「浄薫院韶光幻応大童女」
生母、側室 お以登の方(本輪院)
文化12年〜文化13年(1815-1816) 数え2歳。
仲姫 徳川家斉(24女) 「華成院縁性妙意大童女」
生母、側室 お美代の方(専行院)
文化12年〜文化17年(1815-1817) 数え3歳。
本性院 徳川家斉の側室
吉江左衛門政福の娘、母は、政福の養父次郎左衛門正核の6女
はじめ お保能、のち お袖の方
?〜文政13年閏3月8日(?-1830)
本性院観妙諦普光大姉
享保2年(1717)3月本丸三の間に出仕、侍妾となる。文化元年(1736)御次。文化4年(1807)御中臈となり、徳川家斉の寵愛を受け、3男4女を生む。判明しているものは、文化元年(1736)陽七郎(早世)、文化3年(1806)恒之丞(清水家養子斎彊)、文化4年(1807)岸姫(早世)、文化5年(1808)富八郎(早世)、文化6年(1809)文姫(松平頼胤室結子)、文化8年(1811)艶姫(早世)。
皆善院 徳川家斉の側室
清水家家臣牧野多門忠克の娘。小普請組土屋忠兵衛知光の養女
お八重の方、お美尾の方、お辺牟の方、お屋衛の方
?〜天保14年3月13日(?-1843)
皆善院妙因日了大姉
文化5年(1808)初めて大奥雛遊びを拝見に行ったときに美貌を見込まれ御次となり、同年閏6月御中臈となり"お美尾"と称す。のち"お八重"と改める。家斉の寵愛を受け、文化6年(1809)12月4日保之丞(斎明・清水家を継ぐ)を、文化8年(1811)3月12日盛姫(佐賀藩主鍋島肥前主斎正室)を、文化9年(1812)4月4日乙五郎(鳥取城主池田因幡守斎稷養子)を、文化11年(1814)7月29日銀之助(4歳で津山城主松平越後守斉孝養子・斎民)を、文化14年(1817)信之丞(早世)を、文政元年(1818)7月9日喜代姫(14歳で姫路城主酒井雅楽頭忠学正室)を、文政2年(1819)10月24日徳之助(4歳で上野館林城主松平右近将監斉厚養子)を、文政4年(1821)9月19日松菊(徳島城主蜂須賀阿波守斉昌養子)を、そのた12年間に6男2女を生む。文化12年(1815)上年寄上座となる。
※ 喜代姫の輿入れのときに、酒井家では格式を越えた仲仕切門を作り、前大老の井伊直幸の指摘を受け、輿入れ直前に取り壊すという「酒井家仲仕切門事件」が起き、家老の一人が責任をとり切腹した。
宝池院 徳川家斉の側室
水野内蔵丞忠直の2女、江戸生まれ、母は、稲生平次郎正熹の娘
お歌の方、お宇多の方、お満天、お鷹
?〜嘉永4年(?-1851)
宝池院惠月心明大姉
寛政4年(1792)本丸御次となり、"お満天"と称す。寛政5年(1793)御中臈となり"お鷹"と改める。家斉の側室となり、寛政7年(1795)敬之助(尾州大納言宗睦養養子)を、寛政10年(1798)豊三郎(早世)を、寛政11年(1799)五百姫(早世)を、享和2年(1802)舒姫(早世)を生む。天保12年(1841)家斉没後は、落飾し宝池院と称し二の丸へ移る。
本輪院 徳川家斉の側室
大岩盛英の娘。諸星信邦の養女
(別説)高木新三郎広允の2女、母は、横山富五郎直央の養女で桑山六郎兵衛元武の2女
於茶、お八千の方、お波奈の方、お以登の方
?〜嘉永3年3月13日(?-1850)
本輪院修達了顕大姉
文化元年(1804)本丸御次となり、"波奈"と称す。のち家斉の側室となり、文化12年(1815)琴姫(早世)を、文政2年(1819)永姫(一橋斉位室)を、文政3年(1820)民之助(越前斉承養子)を、文政6年(1823)紀五郎(川越松平斉典養子)を、文政8年(1825)周丸(明石松平斉韶養子)をと、3男2女を生む。天保12年(1841)家斉没後は、落飾し本輪院と称し二の丸へ移る。
速成院 徳川家斉の側室
西の丸新御番組酒井近江守に属する番衆曽根弥三郎重辰の娘
母は、太田林庵教房の3女で天野杢左衛門正方の養女
お蝶の方、お長の方、八百、伊野
?〜嘉永5年6月7日(?-1852)
速成院妙智円成大姉
寛政8年(1796)本丸御次として奉公に上がり、翌年7月3日家斉の寵愛を受け御中臈となる。享和元年(1801)4月22日享姫(翌年6月4日夭折)を、享和3年(1803)8月1日時之助(文化2年9月14日早世)を、文化3年(1806)2月11日虎千代(4歳で紀伊中納言治宝の娘?姫と婚約するも文化7年10月2日早世)を、文化6年(1809)2月22日友松(文化10年6月2日早世)を、文化7年(1810)6月13日要之丞(斉荘、田安斉匡養子)を、文化10年(1813)1月14日和姫(毛利修理太夫広室、操子)を。文化12年(1815)8月15日久五郎(文化14年5月23日早世)を生むなど、5男2女を生むが、生き残ったのは要之助と和姫だけであった。天保12年(1841)家斉没後は、落飾し速成院と称し二の丸へ移る。
円常院 徳川家慶(5男) 「円常院殿惠性寂心大童子」
生母、側室 お加久の方(妙華院)
文政5年5月23日〜文政5年5月27日(1822)・・・没年6月説あり
徳川慶昌 徳川家慶(7男) 「英徳院」
生母、側室 お定の方(清涼院)
文政8年〜天保9年(1825-1838) 13歳。
徳川春之丞 徳川家慶(8男) 「覚性院了真智明大童子」
生母、側室 お美津の方(本寿院) ・・・上記参照
文政9年〜文政10年(1826-1827) 数え2歳。
徳川悦五郎 徳川家慶(9男) 「充誠院善信晃融大童子」
生母、側室 お美津の方(本寿院) ・・・上記参照
文政11年〜文政12年(1828-1829) 数え2歳。
徳川直丸 徳川家慶(10男) 「詮量院法寿湛如大童子」
生母、側室 お筆の方(殊妙院)
文政12年6月25日〜文政13年7月8日(1829-1830)
徳川銀之助 徳川家慶(11男) 「彩恍院智月惠照大童子」
生母、側室 お筆の方(殊妙院)
天保3年3月5日〜天保4年12月6日(1832-1833) 1歳。
徳川亀五郎 徳川家慶(12男) 「憲宗院清嶺慈雲大童子」
生母、側室 お筆の方(殊妙院)
天保9年5月24日〜天保10年5月24日(1836-1839) 数え2歳。
斎信院 徳川家慶(15男) 「斎信院善性住功徳大童子」
生母、楽宮 泰露子(秋月院) ・・・?
嘉永2年9月27日(1849) 即日死亡。
達姫 徳川家慶(長女) 「深珠院殿性源明暉大童女」
生母、側室 お久の方(清涼院)
文化11年9月24日〜文政元年12月24日(1814-1818) 数え5歳。
儔姫(ともひめ) 徳川家慶(二女) 「瑞芳院映性充潤大童女」
生母、正室 喬子(浄観院) ・・・上記参照
文化12年2月17日〜文化12年2月28日 ゼロ歳。
最玄院 徳川家慶(三女) 「最玄院殿本理性如大童女」
生母、正室 喬子(浄観院) ・・・上記参照
文化13年10月23日(1816) 即日死亡。
米姫 徳川家慶(四女) 「瑶台院殿芳薫蓮萼大童女」
生母、側室 お波奈の方(菅谷政徳の娘)
文政7年4月23日〜文政12年3月5日(1824-1829) 数え6歳。
咸姫 徳川家慶(五女) 「諦明院真脱元性大童女」
生母、側室 お加久の方(妙華院)
文政9年1月12日〜文政9年7月16日(1826) 数え1歳。
里姫 徳川家慶(7女) 「麗娟院智操光潤大童女」
生母、側室 お金の方(見光院)
天保4年〜天保5年(1833-1834) 数え2歳。
千恵姫 徳川家慶(8女) 「妙珠院照月本浄大童女」
生母、側室 お筆の方(殊妙院)
天保6年〜天保7年(1835-1836) 数え1歳。
吉姫 徳川家慶(9女) 「麗台院慈性妙心大童女」
生母、側室 お金の方(見光院)
天保7年〜天保8年(1836-1837) 数え2歳。
万釵姫 徳川家慶(10女) 「瓊玉院鏡山円浄大童女」
生母、側室 お金の方(見光院)
天保10年9月26日〜天保11年5月22日(1839-1840) 数え2歳。
鐐姫 徳川家慶(12女) 「玉蓉院清白妙香大童女」
生母、側室 お琴の方(妙音院)
天保15年8月21日〜弘化2年7月7日(1844-1845) 数え2歳。
その他調査中。なお、凌雲院より移転の際に、損傷の激しい側室の墓碑も合祀墓にまとめられたものと思われるが、未確認のものを最後(飛び地のあと)に掲載した。
【飛び地】
長昌院 3代将軍徳川綱重側室
6代将軍徳川家宣生母・館林藩松平清武の母
魚屋伏見屋五郎兵衛
北条氏の家臣田中次郎兵衛勝宗(田中氏次郎兵衛時光説あり)の養女
寛永14年〜寛文4年2月28日(1637-1664)
お保良の方
長昌院殿天岳台光大姉/長昌院殿従三位大岳善光大姉
天樹院(千姫)の屋敷に奉公に上がる。綱重は、万治4年(1661)に天樹院の屋敷で生まれ、奉公人のお保良を見染める。お保良は、綱重より7歳年上であった。寛文2年(1662)4月25日虎松(綱豊/家宣)を生む。綱豊が生まれた頃綱重は、徳川家光の妹の東福院(御水尾天皇の女御)の仲介により関白左大臣二条光平の娘と結婚したばかりで、その遠慮もありお保良の方と綱豊を国家老新見備中守七右衛門に預けた。綱重は、綱豊に会うという口実で、お保良の方としばしば逢い、再びお保良が懐妊したことから、急きょ寛文3年(1663)懐妊したまま家臣の200俵取りの馬廻役越智与右衛門清重の妻として下賜される。与右衛門は、お保良の方を妻として迎えたとはいえ、将軍の胤を宿していることから、専用の部屋を設けて丁重に扱ったという。同年10月20日お保良の方は、この越智家で次男熊之助(松平清武)を産み、その翌年28歳で没する。没時は専光院殿修観日妙大姉として、善性寺墓地(芋坂下辺りらしい)に埋葬されたが、家宣が突然中納言となり、6代将軍となったため、徳川菩提寺の寛永寺墓地に長昌院殿と法名を付け直し別囲いで100坪余の敷地を設け墓を移した。
※ 2008年現在影も形もないが、取り壊された石材に番号が振られているので、いずれ再現されるものと思われる。なお、下記3基は他のものと合祀されるものと思われる。
法心院 6代将軍家宣側室
太田宗庵の娘
天和2年〜明和3年(1682-1766) 85歳
家宣次男・家千代の生母
お古牟(こん)の方
法心院殿遍浄至覚大姉
元禄15年(1702)21歳で桜田御殿に奉仕、御湯殿掛となり、ついで御次にすすみ、さらに中庸となる。宝永4年(1707)26歳で西の丸において家千代(智幻公子)を生む。これにより"一之部屋"様と称された。1男1女を生む。正徳2年(1712)家宣没後、落飾し法心院と称し、馬場先御用屋敷に住んだが、のち浜御殿に移る。明和3年(1766)浜御殿で没する。
蓮浄院 6代将軍家宣側室
従三位園池季豊の娘・櫛笥内大臣隆賀養女
俊覚院(虎吉)・理岸院(大五郎)の生母
?〜安永元年(?-1772)
お須免の方、大典侍(おおすけ)の方
蓮浄院霊池慧華大姉
6代将軍家宣の正室熈子に従って下向、上臈となり大典侍と称す。のち、家宣の側室となる。宝永元年(1704)家宣が将軍嗣子となり、西の丸に移ったときに従う。宝永5年(1708)大五郎(早世)を、正徳元年(1711)虎吉(早世)を生む。正徳2年(1712)家宣没後、落飾し蓮浄院と称し、馬場先御用屋敷に移るが、のち、7代将軍徳川家継の死後に浜御殿に住む。
安祥院 9代将軍家重側室
次男、清水重好(清水徳川家初代)生母
処士三浦五郎左衛門義周の長女、松平又十郎親春の養女
享保6年〜寛政元年(1721-1789) 69歳
お遊の方/お遊喜の方/お逸
安祥院受徳光潤大姉
元文元年(1736)10月20日16歳のとき西の丸のお次として奉公。のち御中膓となる。家重の側室となり、お千瀬の方と称する。延享2年(1745)25歳で万次郎(清水中納言重好)を生む。同年9月家重が9代将軍になると本丸へ移る。宝暦11年(1761)家重が没すると、落飾し安祥院と称し西の丸へ移る。明和4年2月29日西の丸が焼失すると清水家に逗留する。12月21日桜田御門屋敷が落成して移る。和歌を好み、1000首を詠み「心の月集」を著わす。実父義周は、延享2年(1745)召し出されて500俵を与えられる。