深心院(しんしんいん)     元禄13年〜享保6年10月7日(1700-1721)

     徳川吉宗の側室・徳川宗尹の母。名、梅・久。父、京都の浪人谷口長右衛門正次(二女)。母、禁裏の北面の武士服部越中守某の娘。元禄17年(1704)3月和歌山城にて吉宗の母浄円院付きの女中となる。のち、紀州藩を継いだ吉宗の側室となり、吉宗が将軍になると江戸大奥に移り、お内証の方(お久の方)と称される。享保4年(1719)に源三(早世)を、享保6年(1821)に宗尹を生むが、同年病没する。22歳。「深心院慈潭性水大姉」。凌雲院に葬られのち改葬。

徳川宗尹(とくがわむねただ)/覚了院     享保6年閏7月15日〜明和元年12月22日(1721-1764)

     一橋徳川家初代当主。幼名、小五郎。父、徳川吉宗(四男)。母、側室深心院。孫は、11代将軍徳川家斉。曾孫は、12代将軍徳川家慶。享保20年(1735)9月23日元服し、元文3年(1738)一橋御門内に宅地を賜り、徳川宗尹と名乗る。従三位左近衛権中将兼刑部卿に叙任。元文5年(1740)江戸城一橋門内に邸を賜る。寛保元年(1741)一橋邸に住む。延享2年(1745)参議。延享3年(1746)10万石。贈権中納言。正室、一条兼香の娘深達院。43歳。「覺了院殿冬巖性達大居士」。兄、徳川源三がゼロ歳で夭折したため、通称四男といわれる。

徳川治済(とくがわはるさだ)/最樹院     宝暦元年11月6日〜文政10年2月20日(1751-1827)

     11代将軍徳川家斉の実父。父、一橋家2代当主徳川宗尹(四男)。母、おゆかの方(細田氏)。8代将軍徳川吉宗の孫。幼名、豊之助。宝暦12年(1762)元服して家済と名乗り、徳川民部卿と称する。明和元年(1764)11月従三位左近衛権中将。閏12月兄松平重昌と松平重富が相次いで越前福井藩を継いだため、父の死にともない家督を相続。明和4年(1767)京極宮公仁親王の女王寿賀宮を正室に迎える。天明元年(1781)参議。子の家斉が将軍となり、天明8年(1788)治済を大御所として西の丸に迎えたいと幕閣を諭すが、一方、朝廷で光格天皇が御生父閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を奉らんとして、老中松平定信に拒否され対立(尊号一件)する。その結果治済を大御所とする件もダメになった。寛政3年(1791)権中納言。寛政11年(1799)権大納言。隠居。文政3年(1820)従一位。文政8年(1825)准大臣。77歳。「最樹院性龍宝徹」。

徳川斉敦(とくがわなりあつ)     安永9年11月21日〜文化13年9月4日(1780-1816)

     一橋徳川家3代当主。父、徳川治済(六男)。母、於富(岩本氏、慈徳院)。正室、左大臣二条治孝の娘保子。 寛政5年(1793)4月8日一橋家の世子だった兄徳川治国が死去にともない同年6月6日に世子となり、元服し兄の第11代将軍徳川家斉から1文字うけ斉敦と名乗り、従三位左近衛権中将兼民部卿に叙任。寛政10年(1798年)11月23日保子と婚姻。寛政11年(1799)1月27日一橋家の第3代当主となる。文化5年(1808)参議。贈権中納言。37歳。「厳恭院」。

徳川斉礼(とくがわなりのり)     享和3年10月3日〜文政13年6月14日(1803-1830)

     一橋徳川家第4代当主。父、徳川斉敦(二男)。母、野尻氏。正室、田安徳川斉匡の娘近姫。元文11年(1814)2月19日元服し、伯父の徳川家斉から1文字受け、斉礼と名乗る。兵部卿。文化12年(1815)従三位左近衛権中将。文化13年9月4日父斉敦の死去にともない第4代当主となる。文政2年(1819)4月6日近姫と結婚。文政10年(1827)閏6月1日参議。贈権中納言。28歳。「憲徳院」。

徳川斉位(とくがわなりくら)     文政元年6月15日〜天保8年5月7日(1818-1837)

     一橋徳川家第5代当主。父、田安徳川家当主徳川斉匡(四男)。母、高月氏。文政8年(1825)徳川斉礼の養子となり、豊之助と改名。文政10年(1827)6月25日元服し、徳川家斉から1文字受け、斉位と名乗る。従三位左近衛権中将、民部卿。文政13年(1830)養父斉礼の死亡にともない第5代当主となる。天保6年(1835)徳川家斉の27女永姫と結婚。参議。贈中納言。20歳。「崇雲院」。

徳川慶昌(とくがわよしまさ)     文政8年3月14日〜天保9年5月14日(1825-1838)

     一橋徳川家第6代当主。父、徳川家慶(五男)。母、押田氏。正室、なし。兄、第13代将軍徳川家定。天保8年(1837)5月4日徳川斉位の急死にともない末期養子(まつごようし)となり、6月6日第6代当主となる。また、8月19日に元服、徳川家慶から1文字受け慶昌と名乗る。従三位左近衛権中将、刑部卿。贈参議。14歳。「英徳院」。

徳川慶壽(とくがわよしいひさ)     文政6年3月4日〜弘化4年5月7日(1823-1847)

     一橋徳川家第7代当主。父、徳川斉匡(五男)。母、八木氏。正室、伏見宮貞敬親王の娘直子。天保9年(1838)5月25日先代徳川慶昌の急死で後継未済であった一橋家の第7代当主となる。同年元服し、徳川家慶から1文字受け慶寿と名乗る。従三位左近衛権中将。天保12年(1841)12月2日直子と結婚。弘化3年(1846)参議。贈中納言。25歳。「承休院」。

徳川昌丸(とくがわまさまる)     弘化3年1月8日〜弘化4年8月20日(1846-1847)

     一橋徳川家第8代当主。父、徳川斉荘(二男)。母、宮田氏。正室、なし。弘化4年(1847)5月7日先代徳川慶寿の末期養子となり、第8代当主となるが、3か月後に夭折。2歳。「馨明院」。

瓊光院(けいこういん?)     安政5年7月16日〜安政5年7月20日

     徳川慶喜の長女。母、正室 美賀子。この時期は、慶喜は一橋家の当主であった。ゼロ歳。「瓊光院殿池水影現大童女」。

9代は、徳川慶喜、独立墓。
10代は、徳川茂栄/茂徳、独立墓。
11代は、茂栄四男、徳川達道、独立墓。

徳川宗敬(とくがわむねよし)     明治30年5月31日〜平成元年5月1日(1879-1989)

     一橋家第12代当主・伯爵。初名、敬信。父、水戸家当主徳川篤敬(二男)。祖父、水戸藩第10代藩主徳川慶篤。兄、公爵徳川圀順。東京出身。一橋徳川家第11代当主徳川達道の養子となり、宗敬と名乗る。大正12年(1923)東京帝国大学農学部林学科卒業。昭和9年(1934)家督を相続し、伯爵を襲爵。宮内庁に勤め、ベルリン留学後、貴族院議員となる。昭和22年(1947)参議院議員。昭和26年(1951)サンフランシスコ平和条約の全権委員。夫人幹子は、侯爵池田仲博の娘。

徳川宗信(とくがわむねのぶ)     昭和4年〜?(1929-?)

     一橋家第13代当主。父、先代徳川宗敬。母、侯爵池田仲博の娘幹子(1902-1996)。夫人、小山好子。長男、徳川宗親。昭和62年(1987)「あけぼの学園を支える会」会長。

墓は、寛永寺谷中墓地。徳川慶喜墓前の石塀囲いの中の合祀墓。これ以外のものもあるものと思われる。正面「倶会一処」。一橋家墓は凌雲院墓地にあったが、戊辰戦争や関東大震災で損傷が激しく、最も損傷が軽かった2代徳川治済墓を合祀墓として移転した。そのため墓前の4基の灯篭は、治済のもの。当墓域には、当初から建立されていた明治以降の5基と、凌雲院から移転された2基の計7基の墓碑がある。