徳川吉宗(とくがわよしむね)    貞享元年10月21日〜寛延4年6月20日(1684-1751)

    8代将軍。在職:1716〜1745。父、紀州藩2代藩主徳川光貞(4男)。母、浄円院。父と兄の没後に22歳で第5代紀州藩主となる。将軍徳川綱吉から吉宗の名を賜り、左近衛中将になる。伏見宮貞致親王の娘真之宮理子と結婚。7代将軍徳川家継がわずか8歳で死去したため後継が絶え、御三家の中から将軍に選ばれた。享保の改革で幕府を近代化した。諸侯参勤交代の期間を半年とする。江戸両替商を 600軒に限定し、株仲間を結成させる。税制に定免制を採用し5公5民とする。新田開発・国産の奨励、江戸火消47組の編成、上げ米制の廃止、禁書の令の緩和、洋学の奨励などをする。宝暦元年6月20日中風で尿の具合が悪くなったため死亡。68歳。遺言により綱吉の廟に合祀された。また、田安家、一橋家を創設。死後に、清水家が加わり、御三卿の体制が確立した。

墓は、寛永寺第二霊廟。「有徳院」。