徳川重好(とくがわしげよし)/俊徳院 延享2年2月15日〜寛政7年7月8日(1745-1795)
御三卿清水徳川家初代当主。父、9代将軍徳川家重(次男)。生母、お遊喜の方(安祥院)。幼名、萬二郎。徳川家治の弟。正室は、伏見宮貞建親王の娘貞子(貞章院)。宝暦9年(1759)元服、従三位左近衛権中納言に叙す。宮内卿を兼ね徳川と称する。江戸城清水門に屋敷をかまえ、清水殿と称す。宝暦12年(1762)和泉・大和・播磨・甲斐・武蔵・下総等に10万石の田畑を以て采地とする。天明元年(1781)参議。寛政4年(1792)権中納言。没後嗣子なく清水徳川家は空位となる。そのご、11代将軍徳川家斉の五男敦之助が継承し第2代当主となる。しかし、4歳で病死。再び空位となる。文化2年(1805)異母兄弟の徳川斉順(なりゆき:家斉の七男)が継ぎ、第3代当主となる。斉順が紀州藩主に転出となり、文化13年(1816)第11代将軍家斉の10男徳川斉明が第4代当主となる。「俊徳院体空撫心大居士」。
墓は、寛永寺谷中墓地。江木哀墓裏。乙8号11側裏側。以下同じ。
徳川重好墓(向かって最左)
法名:俊徳院體空撫心
徳川田鶴宮貞子(とくがわたづるのみやさだこ)/貞章院 延享5年2月2日〜文政10年8月22日(1748-1827)
徳川重好室。父、伏見宮15代貞建親王。母、秋子内親王 實母家女房岡本氏(權大納言庭田重煕猶子)。宝暦12年(1762)12月4日結婚。
法名:貞章院妙観心院(左から2番目)
徳川敦之助(とくがわあつのすけ)/体門院 寛政8年3月19日〜寛政11年5月7日(1796-1799)
御三卿清水徳川家2代当主。父、11代将軍徳川家斉(五男)。生母、正室の近衛寔子(広大院)。正室は男子を出産するのは、2代将軍徳川秀忠以来であったが、その前に側室の子敏次郎(のちの徳川家慶)が世子と決まっていたため、清水徳川家の養子となり、空跡となっていた清水徳川家を再興させたが、3歳で病没したため、再び空位となった。
法名:体門院殿真際彰善大童子(左から3番目)
徳川斉明(とくがわなりのり) 文化6年12月5日〜文政10年6月10日(1809-1827)
徳川家斉の15男。清水徳川家第4代当主。生母は、側室のお八重の方(皆善院)。異母兄弟の3代斉順が、紀伊徳川家に養子に入ったので、4代当主となるが、わずか17歳で没する。「寛量院殿正善映岳大居士」。
墓は、清水徳川家合祀墓。昭和の初期に凌雲院から移転し、徳川斉明の墓碑の旧石を使用(左から4番目)。
徳川篤守(とくがわあつもり) 安政3年10月14日〜大正13年10月19日(1865-1924)
御三卿清水徳川第7代当主。父、御三家水戸藩第10代藩主徳川慶篤(次男)。小石川水戸藩上屋敷(文京区)出身。明治3年(1870)2月当主不在の清水徳川家を相続。同年11月明治天皇の次侍従。明治4年(1871)1月清水姓に改める。同年5月アメリカに留学。同期に鳩山和夫、江木高遠らがいる。明治10年(1877)帰国。徳川姓に戻す。明治12年(1879)外務省に出仕。明治13年(1880)退官。明治17年(1884)伯爵。子に飛行士陸軍工兵大尉徳川好敏がいる。専修大学創立者の一人。
法名:寛光院修性養徳大居士