松平正甫(まつだいらまさもと)/保科正甫    元禄10年12月25日〜享保12年3月23日(1697-1727)

    会津藩士。父、陸奥国会津藩主松平正容(三男)。母は、栄光院。正徳2年(1712)12月15日従四位下、侍従、大膳大夫に叙する。正徳4年(1714)5月2日元服。宝永5年7月25日(1708)兄・松平正邦の死去により嫡子となったが、父より3年早く没したため家督を相続することなく三田藩邸で死去。31歳。従四位拾遺補闕前大官令。家督は八男・容貞が承継した。幼くして正甫の許婚者であり、7歳で早世した津也姫(円珠院殿)は、武蔵忍松平清輝の長男3代藩主松平忠雅の娘で、天眼寺(谷中1-2-14)が菩提寺。

墓は、瑞輪寺墓地 (谷中4-2-5)。日本美術院裏のメイン通路左側の新規区画墓地の向かい側通路を入る。ひときわ大きい墓碑。正面「紹梅院殿園樹日芳大居士」。松平正邦の没日が25日としたのは、墓碑の記録による。墓碑周りに略歴が彫られている。隣りは、妹の慶姫墓。