村松志保子(むらまつしほこ) 嘉永7年8月〜大正11年1月26日(1854-1922)
慈善活動家・東京産婆会創設者。父、沼田藩御典医村松玄庵(長女)。母、和歌子。沼田藩の上屋敷(港区)の別邸(墨田区)で生まれる。6歳のころ藩主土岐頼知の妻土岐万知子の支援を受け、早くから医術を志す。のち結婚するも離婚。村松家は男兄弟が亡くなり、養子の村松文三も亡くなり、志保子が家督を継いだ。明治14年(1881)横網町に「安生堂医院」を開設。明治15年(1882)「淑女館」と「安生堂産婆学校」を設立、産婆の育成をし、関東大震災まで続けられた。明治21年(1888)西尾京子(1844-1913)らと「東京産婆会」設立。これには北白河宮妃・小松宮妃・ロシアのニコライ2世が資金を援助。明治23年(1890)産院特別施療室を開き、貧困層の妊婦を救済。69歳。
※ 祖父は、中村幽軒で、沼田藩家老だった。沼田藩藩主 土岐頼知は明治になって、代替地として横網町に約2000坪の敷地を所有することになるが、志保子は、頼知の妹の教育や一族の病気看護をし、その礼として、約半分の土地を賜る。志保子は、その土地に、「安生堂委員」や学校・特別施療室を開設した。なお、幽軒は晩年和歌子の家で過ごす。いとこに日本・トルコ交流の開拓者で茶人でもある山田寅次郎/山田宗有(1866-1957)がいる。叔父は、中村莞爾で山田寅次郎の父。
墓は、谷中霊園 乙2号4側にあるが、顕彰碑かも知れない。「松光院仁道慈生大姉」。碑の右側にあるのが父玄庵墓、左側は母和歌子墓。妹春子は、八杉貞利の妻で、墓は、向かい側にある。平成17年(2005)墨田区横網町にも村松志保子の顕彰碑が建設された。