中島久万吉(なかじまくまきち) 明治6年7月24日〜昭和35年4月25日(1873-1960)
実業家・政治家。横浜出身。父、男爵中島信行(長男)。母、陸奥宗光の妹初穂。明治30年(1897)高等商業学校(一ツ橋大学)卒業し、東京株式取引所入社。明治34年(1901)桂内閣首相秘書官。明治39年(1906)西園寺公望首相秘書官を経て、明治40年(1907)古河鉱業に入社。横浜電線(古河電気工業)・横浜ゴム製造の設立に尽力し社長を経て、大正6年(1917)日本工業倶楽部設立に参加、専務理事に就任。昭和5年(1930)臨時産業合理局常任顧問。一方、桂太郎の秘書を振り出しに政界に進出。昭和7年(1932)斉藤内閣商工大臣。「足利尊氏論」にかかわり軍部の反発をかい辞任。「帝人事件」にも関わったが無罪となり政界を引退。このため戦後は、公職追放を免れ、いち早く昭和25年(1950)日本貿易会を設立・会長。昭和30年(1955)日本文化放送社長、帝都高速度交通営団総裁 。死亡叙勲により勲一等旭日大綬章。88歳。夫人八千子(昭和44年12月31日歿86歳)は、岩倉具視の孫の子爵岩倉具明の妹。著書:「政界財界五十年」。
※ 中島信行: 坂本龍馬の海援隊若手三羽烏の一人で、後に自由党結成にあたって副総裁、さらには初代衆議院議長を務めた。
墓は、寛永寺谷中墓地。伊達宗城墓後ろ辺り。藤岡市助墓の後ろの列。御母堂(初穂)墓と合祀。正面「中嶋家之墓」。「真覚院華水竹潭大居士」。父、信行(明治32年3月28日歿)が建てた先立った妻初穂(明治10年8月20日歿)への碑があり、墓誌には、初穂と久万吉と八千子の記述がある。中島信行と後妻湘煙中島俊子の墓は、大磯大運寺にある。