蜷川式胤(にながわのりたね/ともたね) 天保6年5月23日〜明治15年8月21日(1835-1882)
考古学者。明治期の太政官少史。幼名、与三郎のち親胤。姓、宮道。京都出身。祖先は明智光秀に加勢した丹波の代官だったが、光秀の敗北後、京都に移り代々東寺の公人(くにん)となり境内に住む。古美術を父に学び若いころから古美術を研究する。明治2年(1869)丸の内に家を与えられ、横田重賛・井上忠本らと太政官少史に任じ、制度調査御用掛。文部省・内務省を歴任。明治4年(1871)に撮影された「旧江戸城写真帳」を写真家横山松三郎(1832-1884)と絵師高橋由一(1828-1894)と共に作成。明治5年(1872)奈良と京都の古社寺と正倉院の宝物調査を同一メンバーと町田久成らと行い文化財調査記録「奈良之筋道」を作成。軍服制定に関する上書をなし、教部省8等出仕。明治7年(1874)土方之勝・岩橋教章らと太政官8等出仕。明治9年(1876)古社寺宝物検査。東京博物館創設に参画。東洋博物館創設に参画。京都博物館建議。明治10年(1877)退職。コレラで死亡したとも言われる。48歳。書画什器を蒐集。著書:「観古図説」、「瓦器類」など多数。
※ モースの陶器の師で、ボストン美術館の「日本陶器コレクション」をモースが創るきっかけとなる。倉敷市に蜷川美術館があり、蜷川式胤コレクションなどが展示されている。
墓は、谷中霊園乙12号1側。道路角。正面「蜷川式胤墓」。