岩橋教章(いわはしのりあき)    天保6年2月5日〜明治16年3月4日(1835-1883)

    石版技術者。伊勢松阪の出身。父、伊勢松阪藩士木下新八郎。後に岩橋家に入った。年少のころ神田明神下狩野洞庭に絵を学び、洞翠と号す。文久元年(1861)幕府軍艦操練所絵図認方出役となり、日本沿岸の測量と地図制作に従事。慶応4年(1868)榎本武揚の率いる旧幕府軍に加わり江戸を脱出、函館戦争に砲手頭として参加。明治2年(1869)五稜郭開城となり謹慎となるが、翌年禁固放免となり、明治3年(1870)静岡学校付属絵図方を経て、明治4年(1871)明治政府の海軍操練所出仕となり、海軍兵学権大属となる。この頃、松田緑山の門に入り銅版画法を学ぶ。明治6年(1873)に銅版・石版製図法研究のためオーストリアへ派遣された。ウィーンに1年ほど滞在し、ウィーン地図学校で版画家パウリニに師事し、地図製図法・銅および石版画術を修める。明治7年(1874)11月に帰国、明治7年(1874)土方之勝・蜷川式胤らと太政官8等出仕。明治8年(1875)に写生したのが超有名な「鴨の静物」であるという。帰国後は、印書局・内務省地理局などに勤務して地図彫刻の技術で貢献した。明治12年(1879)退官し、麹町永田町の自宅に「文会舎」を開き、門弟に技術指導をした。明治14年(1881)内国勧業博覧会審査官。門弟に写真網目版の創始者堀健吉・グラビア版の創始者岩橋章山がいる。49歳。著書:「地理製図法」、「正智遺稿」。

墓は、谷中霊園乙1号7側。木下家の橘之助・新八郎らも合祀。「正智院明達教章居士」。