丹羽雄九郎(にわゆうくろう) ?〜明治39年9月21日(?-1906)
明治期の貿易商。三重津海軍学校教官を経て佐賀藩鍋島家に仕える。明治3年(1870)藩所有の軍艦「日進丸(のち日進艦)」朝廷献艦(海軍に編入)時に乗組員として上京。明治4年(1871)佐賀藩海軍官員としてアメリカの蒸気船チャイナ号で留学のため渡米。同行者は、名古屋藩の5名・大蔵省運上所出仕佐藤百太郎・華頂宮附安藤直太郎(鹿児島藩)・彦根藩遊学生相馬信一郎・神奈川山内一太郎。退役後は、神田司町で貿易商「アサヒ屋」を創業。のち「日本商会」に改名(?)。東京商工会議所会員(当時の会頭は渋沢栄一)。
※ 明治9年(1876)末、丹羽雄九郎と橘成彦の両貿易商が、直輸出発展のための財政資金融資を政府宛に上申。これが認められ両名がアメリカ向輸出のために国債寮から荷為替資金を借入れ、商品をニューヨークの委託販売人である佐藤百太郎に送り、この販売代金をニューョーク領事館に納付する方法が創設されたが、これは政府貸下金に依存した荷為替取組の初例となった。翌年には準備金取扱規則が改正され、この方式が制度化された。のちには民間の横浜正金銀行が荷為替金融を行うこととなった。
墓は、谷中霊園 甲7号13側。正面「丹羽家之墓」。「アサヒ屋」時代の商標の石標が誌と共にある。