野村宗十郎(のむらそうじゅうろう)     安政4年〜大正14年4月23日(1857-1925)

    和文ポイント活字の創製し印刷活字の革新に寄与した人。父、服部東十郎(長男)。長崎の薩摩屋敷に生まれる。明治2年(1869)父の従兄野村金吾(全吉?)の養子。日本の活版の鼻祖本木昌三の長崎新町の塾「新街私塾」にて英漢数学を修める。傍ら活版を勉強する。明治5年(1872)大坂の開成学校に学ぶ。明治6年(1873)東京英語学校および大学予備門に入るも中退し、簿記学校に転校する。明治12年(1879)大蔵省銀行局に出仕。のち累進し国立銀行検査官。明治22年(1889)東京築地活版製造所に入社し、同社を一流の活字製造所にする。明治26年(1893)同所支配人。明治39年(1906)取締役兼支配人、翌年名村泰蔵の後に続き社長となる。この間和文ポイント活字を創製し、ポイントシステムの米国雑誌の記事を訳し、秀英舎の印刷雑誌に掲載。明治36年(1903)第5回内国勧業博覧会に明朝体活字など9ポイント活字数十種を出品し、その後新聞社に採用され、我が国印刷文化史に大きな足跡を残した。大正5年(1916)紫綬褒章。大正10年(1921)文部省国語調査委員。正七位。69歳。

墓は、寛永寺谷中墓地。徳川慶喜墓うしろ、高木豊三墓の並びの岡家之墓の裏手。正面「野村家之墓」。目黒区目黒不動尊に銅像が建つ。