岡倉天心(おかくらてんしん) 文久2年〜大正2年(1862-1913)
横浜の貿易商の家に生まれ、幼年期から英語と漢語を学び、明治6年(1873)一家が東京に移住し、東京外語学校に入学。のち東京開成学校(西日暮里駅近くにある)を経て、明治10年(1877)東京大学に入学し、政治学、理財学を学んだ。天心は、明治22年(1889)東京美術学校(東京芸術大学)の創立に尽力し、翌年同校の校長となる。しかし、明治31年(1898)東京美術学校での天心排斥騒動で辞職し、天心に共感して辞職した人達と同年東京谷中初音町に「日本美術院」を設立した。始め好調であったが、日本画の革新を目指した没線描法を非難され注文が減り財政難になった。一方、天心はボストン美術館の東洋部の部長になり、日本のみならず東洋の美術を積極的に米国に紹介するなど、世界中を旅行し日本に落ち着くことはなかったため、日本美術院での求心力も落ちた。天心は明治39年(1906)茨城県五浦に移して再起を図ったが夢達せず死亡した。門下に横山大観、菱田春草、下村観山ら(共に東京美術学校を卒業)がいる。日本美術院は、天心没後奮起して大正3年(1914)弟子の横山大観、下村観山らが現在の場所(谷中4)に再興した。昭和46年(1971)に改築、平成13年(2001)に庭の一部を残して新築した。