渋江抽斎(しぶえちゅうさい)   文化2年11月8日〜安政5年8月29日(1805-1858)

    江戸後期の儒者・弘前藩医。名、令善。字、道純。通称、恒吉。号、抽斎。父、渋江允成。生まれは江戸の神田弁慶橋。家は代々弘前藩の定府医官(江戸でのお抱え医)で、2歳で家督を相続し文政5年(1822)に弘前藩の表医師をつぐ。医学を伊沢蘭軒、儒学を狩谷(木+夜)斎、経学を市野迷庵に学ぶ。弘化元年(1844)、幕府の医学校躋寿館の講師、嘉永2年(1849)に公儀御目見の身分となった。安政5年(1858)コレラに罹り没した。54歳。考証家としてすぐれ、漢・国学の実証的研究方法に功績が大きい。蔵書家、江戸図・武鑑(※)の収集家としても有名。著書は多くない「護痘要法(ごとうようほう)」、「経籍訪古誌」など。森鴎外の歴史小説「渋江抽斎」で有名となる。この小説によると、酒もあまり飲まず、たばこも喫まず、大きな旅行もしないが、読書、観劇、能楽、園芸、囲碁、謡(うたい)、古画など趣味は多彩であったという。古画を楽しんだが多くを買い集めることはなかった。また谷文晁から人物山水を教わり画いた。

※ 武鑑(ぶかん):江戸時代の諸大名の氏名・居城・家系等を明らかにした書。毎年改訂本が発行された。森鴎外も武鑑の収集家で、この過程で渋江抽斎に興味をもったと鴎外自身が述べている。

墓は、感王寺(谷中6-2-4)。墓地中央辺りにあり、本堂を背にしている。抽斎の碑の西に渋江氏の墓が4基ある。高祖父輔之(ほし)、父允成(ただしげ)とそれぞれの妻だが、それ以外も合祀されている。抽斎の墓誌の文は、当時4歳の子成善(しげよし)の師でもある海保漁村(かいほぎょそん:1798-1866、大田錦城門下の儒者)であるが、あまりにも長文だったため文字の分かる数人が寄ってたかって削除・変更をしたため、文の意味が良く分からなくなったという。書は、小嶋成斎(こじまなりあきら:1796-1862、書家)。なお、戒名は、自ら「容安院不求甚解居士」と決めていたが、その奇抜さからついに碑に彫られることはなかった。