渋江信夫(しぶえのぶお)    ?〜明治14年5月19日(?-1886)

    「清国地図漏洩事件」関係者。明治政府最初の測量技術者福田治軒は、陸軍省に入局すると早速に測量機材とともに、各県から測量技術者を採用したが、その中には、渋江信夫と矢島守一がいた。渋江信夫は、陸軍省参謀本部職員地図課職員で明治10年(1877)木村信卿と共に陸軍参謀局から発行された百十六万分一「大日本全図」(国土地理院蔵)を完成。矢島守一は、日露国境画定事業の日本側測量責任者であった。明治14年(1881)1月29日非職であった木村信卿と渋江信夫、木下孟寛、他2名は、日本全図を清国公使館に密売した容疑で拘引されるが、なぜか事件の前に二人の参謀本部職員が謎の死を遂げ、続いて同年5月3日の参謀局で西洋画の指導をしていた川上冬涯が熱海で謎の死をとげ。更に、拘留中の渋江信夫が自殺する。

墓は、谷中霊園 乙5号5側。駒井重格墓の隣り。正面「渋江信夫先生之墓」。