木村信卿(きむらのぶあき/のぶさと)    天保11年〜明治39年9月20日(1840-1906)

    日本で最初の陸軍図式「路上図式」を作成。幼名、長信。通称、大三郎。号、柳外。現、仙台市青葉区柳町通の武士出身。8歳で藩校養賢堂に師事。その後、仙台藩に出仕し洋兵学などを学び、安政4年(1857)に江戸へ出て洋兵学、蘭学、仏学などを学び、慶応2年(1866)には横浜でフランス公使館書記官に会話・翻訳を学んだ。明治のはじめ横浜太田町で高橋是清と同居。漢学を安積艮斎(あさかごんさい)に、蘭学を大村益次郎・戸塚静海に、フランス語を村上英俊・入江文郎に学ぶ。仏国公使館書記官。兵部省出仕。明治5年(1872)陸軍省7等出仕。明治6年(1873)少佐、編纂課長兼地図課長となり、兵語辞書編纂。築造書翻訳。明治8年(1875)陸軍参謀局第5課地誌課長。明治10年(1877)渋江信夫と共に陸軍参謀局から発行された百十六万分一「大日本全圖」(国土地理院蔵)を完成。しかし、明治11年(1878)地図密売疑惑事件が起き職を解かれる。明治14年(1881)1月非職であった木村信卿と参謀本部職員地図課職員渋江信夫、木下孟寛、他二名は、日本全図を清国公使館に密売した容疑で拘引される。また、同年5月3日の参謀局で西洋画の指導をしていた川上冬涯が熱海で謎の死をとげ、更に、拘留中の渋江信夫が自殺する。信卿は、晩年を石巻で過ごした。67歳。

墓は、谷中霊園甲9号15側。正面「木村眞卿/配 多氏 墓」。「玄道院実女柳外居士」