信夫恕軒(しのぶじょけん) 天保6年〜明治43年12月11日(1835-1910)
学者・漢学者。鳥取藩士。江戸出身。名、粲。字、文則。号、恕軒・天倪。海保漁村・芳野金陵・大槻磐渓に師事、経史・文辞を学ぶ。明治初年上州島村の田島氏に呼ばれ「養蠶新論」を書いた。初め法華僧であったが還俗して学者あとなる。のち、東京に戻り江東本所に子弟教育所「奇文欣賞塾」を開く。明治13年(1880)東京帝国大学に呼ばれ講師となり、6年間で辞め、三重県中学校で教授を3年勤める。明治30年(1897)和歌山県徳義藩校にて教鞭を執る。晩年は、小石川竹島町で過ごした。博学で易および詩に精しく、文もよくした。76歳。著書:「恕軒文鈔」、「恕軒漫筆」、「赤穂誠忠録」など。子に国際法学者の信夫淳平がいる。
墓は、谷中霊園 甲4号6側。春日野剛史墓前。「天倪斎文則居士之墓」。