塩谷簣山(しおのやきざん) 文化9年5月10日〜明治7年9月10日(1812-1874)
漢学者。名、誠。字、誠之。通称、量平のち修輔。号、簣山・晩翠園・楠蔭書屋。父、塩谷桃蹊(二男)。兄は塩谷宕陰だが、宕陰の嗣子となる。父の命で医を修め、父を早くに亡くし18歳で松崎慊堂に経学を学ぶ。25歳時京阪で活動。天保11年(1840)老中水野忠邦に登用される。文久3年(1863)幕府儒官。ペリー来朝時にしばしば上申。慶応2年(1866)甲府典館督学。維新後明治3年(1870)大学助教授。著書:「簣山文抄」、「西遊簿」、「避署録」、「叢語」、「漂民語録」、「研醜一覧」、「通史」。63歳。嗣子、塩谷時敏(青山)。
墓は、天王寺墓地。塩谷宕陰と同墓域内。正面「簣山塩谷先生曁配/秋月恭懿両孺人墓」。