菅沼達吉(すがぬまたつきち) 文久元年〜大正4年5月3日(1861-1915)
日本銀行大阪支店長・大阪電灯取締役。父、旧幕臣徳川家大目付森泰次郎(二男)。奥儒者成島柳北は叔父。明治3年(1870)菅沼初之助の養子となり、家督を相続。明治20年(1887)英語学校・東京法学院講師。第二高等学校教授として仙台に移る。明治30年(1897)第二高等学校初代校長の吉村寅太郎が厳格主義だったため排斥運動を起こし排除、2代目校長は、沢柳政太郎となった。この責任をとり、教授7名と共に辞職。転じて、日本銀行に入り、大阪支店勤務となる。のち山口銀行支配人。明治36年(1903)大阪市助役。大阪電灯会社常務取締役。朝日紡績会社取締役。正妻との間には、長男(明治23年生)、長女(明治26年生)、次女(明治28年生)、次男(明治30年生)と内妻の海産物問屋の娘馬詰愛江との子3人を合わせると7人の子が居る。菅沼達吉の長男馬詰弘(明治40年生)は、母馬詰愛江の実家の馬詰家の養子となり、次男俊哉(明治42年生)が菅沼家を継ぎ、三男久弥(大正2年生)は達吉の義理の母が再婚した山口県の森繁という血縁のない森繁家を継ぎ、俳優森繁久弥として知られる。53歳。
墓は、谷中霊園 乙5号3側。南側端。正面「菅沼氏之墓」。「清光院殿義達日英居士」。