竹田政智(たけだまさとも) 慶応2年〜昭和4年6月6日(1866-1929)
実業家。東京出身。はじめ農務省に出仕するも明治24年(1891)官界を去る。東京人造肥料会社専務。東京園芸会社社長。上越電気会社・小倉鉄道・大阪人造肥料 各会社取締役。大正6年(1917)渋沢栄一の4男渋沢秀男と娘こと子が結婚。大正7年(1918)田園都市株式会社専務。大正11年(1922)東急バス初代社長。同年10月2日目黒蒲田電鉄(株)社長(専務取締役に五島慶太)に就任。64歳。妻、絢子(昭和21年4月9日歿)。
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※ 田園都市株式会社: わが国初の田園都市づくりを専業とした会社で、渋沢栄一が自然を欠く都会生活が、健康面・生活面におよぼす悪影響に心を痛め、東京の郊外でもイギリスのような田園都市を創設できないかとの思いから大正7年(1918)11月に設立された。これに賛同し、東京商業会議所前会頭中野武営・同前副会頭で東京印刷社長の星野錫・銀座の時計商服部金太郎・そのほか柿沼谷雄や竹田政智などが事業をバックアップした。
墓は、谷中霊園 乙11号12側。御殿坂側から入り同ブロック最奥。近藤利兵衛墓裏。寛永寺谷中墓地側。すぐ右隣りの墓は、寛永寺谷中墓地と思われる。正面「竹田家之墓」。