田代義徳(たしろぎとく/よしのり)    元治元年7月26日〜昭和13年12月1日(1864-1938)

    日本最初の整形外科医・東京帝国大学名誉教授・医学博士。父、田部井世里正(三男)。養父、田代基徳。旧名、田部井又助。足利市田中町出身。八幡町禅定院の立教小学校で漢学などを学ぶ。卒業し15歳で同校教師。明治11年(1878)東京大学医学部予備門に入る。明治12年(1879)田代基徳の娘春子の婿養子となる。明治21年(1888)東京大学医学部卒業し、同医学部外科教室に入り、 佐藤三吉・スクリッパの下で研修。傍ら私立済生学舎にて外科学を講じた。明治24年(1891)東京田代病院を開設。明治33年(1900-1904)文部省留学生としてドイツに留学し整形外科を学ぶ。帰国し大学助教授。明治39年(1906)東京大学病院に整形外科を開設し、日本初の整形外科初代教授に昇任。明治41年(1908)泉崎慈善病院院長。大正10年(1921)児童保護肢体不自由児施設「柏学園」を柏倉松蔵に創立させ、この分野の先駆となった。大正13年(1924)退職し帝国大学名誉教授となる。大正14年(1925)下谷区会議員、後東京市会議員。大正15年(1926)日本整形外科学会を創立し初代会長。日本整形外科の開祖と呼ばれる。従三位勲三等。

墓は、天王寺墓地。さくら通りとは反対側(西側)のぎんなん横丁に面する小室信夫墓の後ろ。さくら通りからは、朝倉文夫墓前通路を行き、突き当りを左に行き、ぎんなん横丁に出る手前。正面「田代義徳/室 泰子 墓」。