田代基徳(たしろもとのり) 天保10年〜明治31年3月21日(1839-1898)
陸軍軍医監・大学東校大助教。父、中津藩儒医松川修山。従兄の中津藩医田代春耕の養子。肥?に師事し漢方を学ぶ。のち大阪の適塾で緒方洪庵に師事し蘭学を学ぶ。洪庵が西洋医学所頭取となると江戸に出て元治元年(1864)医学所句読師を拝命。慶応元年(1865)軍医。明治元年(1868)鳥羽伏見の役にて傷病兵の治療に従事。同年居を下谷練塀町に移し、私塾「修文舎」を開き医学生を養成。明治2年(1869)足立寛・相良有孚らと大学東校中助教。明治5年(1872)大助教。明治7年(1874)松本良順等と医学会の前身である「医学会社」を創立。同年陸軍に出仕し二等陸軍医正。明治16年(1883)陸軍軍医監。明治25年(1892)陸軍医正。翌年退官。整形外科の開祖と言われる。養子に田代義徳がいる。正五位勲三等。明治元年(1868)訳書「切断要法」を出版。著書:「外科手術」・「医事新聞」に寄稿。
墓は、天王寺墓地。さくら通りとは反対側(西側)のぎんなん横丁に面する小室信夫墓の後ろ。さくら通りからは、朝倉文夫墓前通路を行き、突き当りを左に行き、ぎんなん横丁に出る手前。正面「田代基徳/室 千代子 墓」。