鄭永寧(ていえいねい)    文政12年8月11日〜明治30年7月29日(1829-1897)

    外務省権大書記官(外交官)。父、呉用蔵(6男)。長崎出身。呉家は、中国福建省泉州の旧家で、明朝の遺臣でわが国では浄瑠璃の国姓爺として知られる鄭成功の子孫。明朝末期の動乱を避け長崎に渡来し永住。代々長崎奉行の唐通事をつとめる。英語と中国語ができたので、明治元年(1868)翻訳方を命じられる。明治2年(1869)東京に召し出され1等訳官となり、ついで大訳官、3等文書権正。外務省に登用され、支那代理大使を勤めた。台湾事件では柳原公使を助け手腕を発揮。朝鮮問題では、森有礼を助け李鴻章との談判通訳に当たる。明治12年(1879)7月外務権大書記官。明治14年(1881)辞職。明治18年(1885)再び外務権大書記官。伊藤博文に随行し、天津条約締結の通訳を担う。東京外国語学校中国語学科長。69歳。子(養子)に日本初の喫茶店を開いた鄭永慶がいる。三男に鄭永邦がいる。

墓は、谷中霊園乙4号11側。「永寧」の文字のある墓は、当区画内には見当たらない。墓誌にも見当たらない。唯一「寂」と一文字の墓があり、他に何の文字も見当たらないが、この墓標が「永寧」の墓と思われる。