鶴田皓(つるたあきら) 天保6年12月26日〜明治21年4月15日(1835-1888)
明治期の刑法編纂委員司法大書記官。名、皓。字、玄縞。通称、予太郎。号、斗南。父、佐賀藩士多久氏の家臣。はじめ草場佩川に学ぶ。嘉永6年(1853)江木鰐水に師事し上京。安積艮斎・羽倉簡堂の門人。ついで、木下犀潭に師事し、井上毅と共に唐・明・清の諸律を講じる。安政3年(1856)帰国後、郷里で教師をする。明治元年(1868)会津戦争に参加。のち東京に留まり、明治2年(1869)渡辺重正・榊原芳野らと大学少助教。明治3年(1870)刑部少判事に転じ「新律綱領」、「改定律例」の選定に関与。7月司法省設置とともに明法助となる。明治5年(1872)欧州に出張し司法関係を視察。明治6年(1873)9月帰国し、明治7年(1874)明法権頭。明治8年(1875)司法大丞。明治10年(1877)太政官大書記官。明治12年(1879)1等法制官・検事兼元老院議官。明治14年(1881)大審院検事長・陸軍刑法審査員・海軍軍律刑法審議員。明治15年(1882)参事院議官。明治18年(1885)元老院議官に復す。その他諸法典編纂に参加。東大法学部講師。司法省調査団としてフランスに赴いたとき熊本時習館時代の同僚である井上毅と同行している。正三位勲二等。54歳。
墓は、谷中霊園乙13号左3側。正面「元老院議官正三位勲二等鶴田晧之墓」。