江木鰐水(えぎがくすい)    文化7年12月22日〜明治14年10月8日(1810-1881)

    藩校誠之館教授・医者・福山藩儒官。名、?(せん)。字、晋戈。通称、繁太郎。号、健斎・三鹿斎。豊田郡戸野村(広島県賀茂郡河内町)出身。父、庄屋福原与曽八(藤右衛門貞章)(三男)。福山藩医・五十川菽斎(いかがわしゅくさい)および篠崎小竹に師事。福山藩医江木玄朴の家を継ぎ江木を名乗るも、医術を好まず。文政8年(1825)ころ儒医野坂完山に師事。天保元年(1830)京都に出て頼山陽に師事儒学を学ぶ。山陽没後、天保4年(1833)大坂で篠崎小竹に師事儒学を修める。天保6年(1835)江戸で古賀イ同庵(こがとうあん)に師事。また清水赤城に長沼流兵法を学ぶ。天保8年(1837)備後福山藩主阿部正弘に抜擢され藩校の講書となり、のち天保12年(1841)福山藩儒官となる。弘化2年(1845)阿部正弘が老中になると、政治顧問となる。安政2年(1855)福山誠之館が創られ兵学を講義。独学で西洋兵学を講義。弘化4年(1857)阿部正弘の没後は、阿部正教・阿部正方・阿部正桓の3代に仕えた。元治元年(1864)と慶応元年(1865)の長州征討に出陣し、明治元年(1868)の戊辰戦争では箱館戦にも参加、参謀となる。維新後は福山の治山治水・殖産に尽力する。明治10年(1877)一家をあげて東京に移る。72歳。碑は三島毅撰文。著書:「山陽行状」「孫子註」「仰高芳蹟」「客窓漫録」など。子に江木松四郎がいる。

墓は、谷中霊園乙7号10側。墓標裏3面に履歴は記されている。正面「鰐水江木先生墓」。