山岡米華(やまおかべいか)    慶応3年1月28日〜大正3年5月19日(1868-1894)

    画家・書家・官僚。名、八代尚樹。字、子敬。通称、幸太郎。別号、小董堂・嫩芳園。父、山岡尚広(長男)。高知県出身。幼くして郷里の画家名草逸峰(なぐさいっぽう)に南画を学ぶ。書は長三洲(ちょうさんしゅう)に学ぶ。19歳で上京し法制経済を学ぶ。裁判所書記となり、傍ら大審院であった川村雨谷に師事。書家として内閣賞勲局に出仕。後、官を辞して画業に専念し、久保井華珪、佐竹永邨等に指導を受け、日本美術協会展、日本画会展で受賞。文展審査員。日本南宗画会幹事。日本画会幹事。明治39年(1906)に猪瀬東寧・川村雨谷・中島杉陰・菅原白龍・石井鼎湖・村田香谷松林桂月ら20余名と共に「日本南宗画会」を結成。明治40年(1907)東京勧業博覧会において「秋山閑居」が一等賞牌、同年の日本美術協会展において「秋景山水」が二等賞銀牌受賞。翌41年(1908)第2回文展より審査員。明治43年(1910)横山大観・寺崎広業らと約3カ月の中国を旅行し、万里の長城などを訪問した。甲府に招かれ揮毫の途で旅館淡露館にて客死。47歳。作品:「秋山幽趣」、「秋山閑居」、「水墨山水」、「秋峰秋景山水」、「浅緯秋景山水」、「万壑松涛々」、「水墨夏景山水」。画集に「米華画譜」など。

墓は、天眼寺墓地(谷中1-2-14)。墓地に入って2本目の通路の右角。正面「山岡家之墓」 。「尚樹院徹玄米華居士」。