吉岡哲太郎(よしおかてつたろう)     万延元年〜?(1860-?)

    理学士・「新著百種」出版元。父、吉岡正直(長男)。東京出身。明治16年(1883)理学士。大蔵省入省。のち農商務省技師。明治39年(1906)イタリア出張。明治41年(1908)水産講習所技師。この間、神田南乗物町で「吉岡書店」を営む。明治22年(1889)雑誌「新著百種」を出すにあたり、尾崎紅葉に第1集の小説を依頼し、紅葉は「色懺悔」を書いて応えている。また、明治35年(1902)棚橋一郎・山本宜喚・小川銀次郎・實吉益美・杉浦鋼太郎・高津鍬三郎らと7名で私立高等女学校設立を計画。翌年棚橋絢子を校長に「私立東京高等女学校」を開校した。このほか、幸田露伴とも交流があった。正五位勲六等。

墓は、谷中霊園 乙2号9側。古澤南洋墓の隣り。正面「正五位勲六等理学士吉岡哲太郎之墓」。墓誌なし。