陽其二(ようそのじ)    天保9年6月〜明治39年9月24日(1838-1906)

    横浜毎日新聞創業者・新聞界の祖。通称、子之助。字、大有。号、天老居士・夏徴生・蜻州・星州ほか。父、陽雄三郎。明の旧臣の帰化人を先祖に持つ。家は代々唐通事で、10歳にして唐語通事見習役。安政3年(1856)長崎開港に伴い港開所勤務。本木昌造に学ぶ。文久2年(1862)幕府海軍長崎丸汽関方となり、海軍に属し、品川=兵庫間を航海する。慶応元年(1865)長崎製鉄に勤務し、活版製造の事業を管理。慶応2年(1866)本木昌造配下として活版製造に従事。慶応年間の長崎滞在時に「新町塾」を設け、自ら校長となり、本木昌三を教頭として子弟を教育。明治4年(1871)井関盛艮(いせきもりとめ)の企画で日本初の日刊新聞である横浜毎日新聞社を岸田吟香らと創刊した一人。本木昌造の創造した鉛活字を用いた新聞で、本木昌造の弟子である陽其二は発行の実務を担当した。明治5年(1872)同社を辞め、横浜に印刷所「景諦社」を創立。平版印刷の"こんにゃく版"の一種を発明。明治7年(1874)「景諦社」を王子製紙に売り渡す。明治9年(1876)大蔵省の命により、第一銀行で銀貨10万円の試売のため行員と共に通訳として香港・上海に渡る。帰国後、東京・横浜製紙分社総括を兼務。明治14年(1881)日本橋に「偕楽園」という支那料理店を開店、自ら料理する。明治23年(1890)職を辞す。その間、内国勧業博覧会審査員や本木昌三・平野富二を助けて「築地活版所」設立に尽力。晩年、跡見女学校において割烹を教授。69歳。著書:「支那貿易説」。

墓は、乙2号11側。墓標には「其二」の文字は見当たらない。年代からすると、没年明治39年のものと、没年昭和10年のものがあるので前者と特定できる。正面「陽家之墓」。「大有院殴陽靖洲居士」。