淡島椿岳(あわしまちんがく) 文政7年2月8日〜明治23年9月22日(1823-1889)
浅草寺淡島堂に籠もった文人画家。武蔵川越在小ケ谷村の農家出身。本姓、小林氏平。通称、城三。号、椿岳・吉梵・南平堂。兄の八兵衛と江戸に出て、兄は伊藤家の養子に、椿岳は軽焼屋淡島伊賀掾の養子となる。日本画は馬喰町近くの蔵前に画塾を開いていた大西椿年と椿年の師であった谷文晁に師事し、文晁死後は高久隆古に学んだ。また、洋画は川上冬崖、高橋由一らの交流を通して学ぶ。鳥羽僧正作の「鳥獣戯画」をもとに独特の漫画風を大成。当時、文学者らに評価されなかった伊原西鶴の理解者で、幸田露伴・尾崎紅葉にその真価を披歴。三味線・お経・尺八・灸など多趣味で奇人と言われ、ピアノの演奏会を開く、ペンで仏画を描くなどした。明治3年(1870)浅草寺伝法院の仁王門の二階に転居。浅草文化に触れ絵画や骨董を趣味とする。明治7年(1874)ころ天台宗に帰依し、浅草寺本堂脇に淡島堂を建てて住む。この頃、下岡蓮杖(日本商業写真の開祖)・仮名垣魯文などと交流があった。明治12年(1879)ころ「西洋のぞき眼鏡」という西洋の景色・戦争・油絵などを見せるジオラマを有料公開し、西郷隆盛も見学に来たという。明治17年(1884)ころ向島(墨田区)に移転し住居を梵雲庵(ぼんうんあん)と呼んだ。160人の妾がいるという話もあり女性関係も多かったという。いつの頃か椿岳は水戸の支藩(分家藩主)の株を買って小林城三と名乗りもう一人の妻と結婚し妻2人となる。67歳。子に淡島寒月(本名:淡島宝受郎:1859-1926)がいる。
※ 辞世: 「今まではさまざまな事をしてみたが、死んでみるのは之が初めて」。
墓は、谷中霊園甲9号5側。飛び地のため、甲9号24側の裏(西)側。現在は小林家の墓に合葬。墓碑は「小林氏之墳」とある。