忠綱寺(ちゅうこうじ)     創建: 寛永3年(1626)

場所: 台東区池之端2-5-43
アクセス: 千代田線根津駅南口(上野動物園寄り)下車。すぐ不忍通りから右に曲がり、突き当りを左に行き、右側。

     向岡山渡邉院忠綱寺。浄土真宗大谷派。開基:渡邉大学頭吉綱の兄渡邉忠七郎忠綱のために神田に創建し、のち現在地(旧池之端七軒町57番地)に移る。即ち忠綱寺と号する。本山13世宣如上人のとき、渡辺大隅守綱貞2男半九郎正綱を以て住職に願い法名順加(ママ)と称し、当寺初代となす。本尊:阿弥陀如来。本尊は、三河国高綱山證誠院了善寺より移して安置、惠心僧都の作と伝えられる。「渡邉の綱」・「槍の班蔵」ゆかりの寺として知られる。

山門前の案内によると、「当、忠綱寺は人皇五十二代に始まる所謂嵯峨源氏の流れをくみ左大臣源融から四代後の源綱が摂津の国、渡邉に住まいしたろころから姓を渡邉と名乗るようになる。羅生門の鬼退治で有名な『渡邉の綱』がこの源綱である。更にこれより二十三代目が渡邉半蔵源守綱である。譜代である徳川家康に弘治三年(1557)十六歳で出仕する。桶狭間の戦いより二年後の永禄五年(1562)三河八幡の戦いで今川の将、板倉弾正の率いる適と戦い防戦一方になる時その殿(しんがり)を任せられる。半蔵大いに奮闘し適将山下八郎三郎と槍を合わせその首級をあげその間に味方の士を数十人救って無事退却させた。家康大いに称揚し以後『槍の半蔵』の異名で知られることとなる。この後三千石を武蔵比企にて賜り更に数々の武功により凡そ一万四千石を各知行地併せて領す。息重綱、孫忠綱と続く。忠綱は采地の内より三千石を分領されるが二十歳にて夭折する。弟大学が兄の所領武蔵比企を継ぎ丹後守吉綱となる。兄想いの吉綱は神田に渡邉院忠綱寺と名を冠し一寺を建立しその菩提を弔った。その後下谷池之端の現在地に移ったものである。吉綱は四代将軍家綱の信任を受け御小姓組番頭、御書院番頭と進み大阪定番となりまして一万石の加増を受け和泉国伯太藩一万三千五百余石の大名になり明治まで続く。」とある。



下記のお墓がある。

落語家古今亭今輔(4代)
書家樋口逸斎
和泉伯太藩第8代藩主。伯太藩渡辺家10代当主渡辺潔綱
幕臣・武蔵野本初代藩主渡辺吉綱の兄渡辺忠綱