長谷川泰(はせがわたい/やすし)    天保13年8月〜明治45年3月11日(1842-1912)

    日本医科大学の前身である「済生学舎」を創設。幼名、多一のと泰。字、子寧。通称、復庵。号、蘇山・蘇門道人・柳塘・八十八峰外史・信水漁夫。父、旧古志郡福井村(長岡市福井町)の漢方医10代長谷川宗斎(長男)。越後国古志郡福井村(新潟県長岡市)出身。はじめ粟生津の鈴木文台の漢学塾に学び、鵜殿春風に英語を学ぶ。世がすでに西洋医学の時代になったことを悟り、江戸に出て坪井芳州に西洋医学を学び、長じて佐倉の佐藤泰然の順天堂「佐藤塾」に入門し、佐藤尚中に洋学を学ぶ。のち松本良順が佐幕軍に投じるため塾の引き継ぎ役のため江戸に戻り松本良順塾へ入門。慶応元年(1865)江戸医学所句読師となる。折しも戊辰戦争が始まり、泰は長岡藩の軍医として従軍し、敗戦し郷里へ帰る(官軍に従軍したとの説あり)。明治2年(1869)大学東校少助教、東校では、総長石黒忠悳の下で次長。のち東京医学校校長・長崎医学校校長となったが、長崎医学校の廃校に伴い、大学に行かなくても医者になれる仕組みを作るため明治9年(1876-1903)4月本郷区元町に「済生学舎」(のち、東京医学専門学校済生学舎、日本医科大学の源流)を設立、入学試験卒業試験もなく、早くから女性に門戸を開き、明治36年(1903)に廃校になるまで9600人もの医師を養成。女医1号の荻野吟・吉岡弥生・野口英世もこの中の卒業生。また、後藤新平の後を受けて旧内務省衛生局長に就任し、明治33年(1903)日本最初の下水道法制定に尽力した。一方、政界では明治23年(1890)から衆議院議員に3回当選、官界にあっては内務省衛生局長・日本薬局方調査会長など医政に功績を残した。明治27年(1894)以降は教育に携わったが、明治36年(1903)の専門学校令に反対し、「済生学舎」を閉じる。「性豪放にして奇行多し、漢独英蘭の語に通じ詩をよくし文またよし」と資料にある。71歳。従三位勲三等。弟に長谷川順次郎。因みに泰は長谷川家11代。13代長谷川亀之助。14代の長谷川博は、慶応医学部卒、国立がんセンター外科部長を経て、茨城県がんセンターの病院長となった。著書:「昆氏産科学」、「簡明薬物学」、「内科要説」など。

※ 明治42年(1909)発行の慶応義塾出身名流列伝に、長谷川泰のことが書かれている。

墓は、谷中霊園乙1号7側。正面「宏済院悟山泰道大居士/・・・大姉」。長谷川順次郎の墓はない。