平山成信(ひらやませいしん/なりのぶ/しげのぶ) 安政元年11月6日〜昭和4年9月25日(1854-1929)
明治大正期の官僚・漢詩人・男爵。号、竹渓。父、幕臣竹村七左衛門。平山省斎の養子となる(墓誌には、省斎長男とある)。東京出身。明治4年(1871)左院権少書記官。明治5年(1872)書記官。以来、農商務省・外務省・大蔵省に勤務。明治6年(1873)ウィーン万博事務次官として渡欧。帰国後正院出仕、1等書記生、フランス駐在、パリ博覧会事務官。明治24年(1891)松方正義内閣・枢密院各書記官長。大蔵省官房長・宮中顧問官。明治27年(1894)貴族院議員。のち枢密顧問官。有栖川宮別当。大正6年(1917)松方内大臣府御用掛。親任内大臣御用掛。帝国女専・日本高女・静専女学校・静岡育英会などの校長として女子教育に努める。一方、日赤創立以来その理事となり、社長となる。産業協会創立、帝展の創立に尽力。啓明会会長。大正13年(1924)男爵。正三位勲二等。76歳。
平山洋三郎(ひらやまようざぶろう) 明治33年6月22日〜昭和45年10月11日(1900-1970)
帝国女子専門学校校長・貴族院議員。父、平山成信(三男)。東京出身。大正14年(1925)農林局農政課勤務。営林局事務官農林事務官・同理事・畜産局・畜政課長・山林局管理課長・米穀局管理課長。昭和16年(1941)農政局農業保険課長。帝国女子専門学校校長。従六位位勲六等。70歳。夫人は、医学博士三宅鉱一長女栄(1905.4.19-1943.6.7)。
墓は、谷中霊園 乙9号1側。大きな井上正鉄墓の向かって左隣りで、階段を上がる。隣には父平山省斎の墓がある。