平山省斎(ひらやませいさい)/平山敬忠(ひらやまよしただ) 文化12年〜明治23年5月22日(1815-1890)
幕末の外国奉行・江戸幕府若年寄・明治初期の宗教家。従六位。初名、田村久蔵。前名、黒岡謙次郎。名、敬忠。字、安民。号、省斎・素山。父、陸奥三春藩士黒岡活円斎(または旗本岡田甚平?)。江戸に出て叔父奥御祐筆組頭竹村七佐衛門に寄宿、安積艮斎に師事。幕臣平山氏の養子として幕臣となり、嘉永4年(1851)御目付役。安政元年(1854)堀利熈・村垣範正に従い蝦夷地を視察。安政2年(1855)ペリー再来航のとき岩瀬忠震とともに下田で応接に当たる。その後、北方、長崎などの警護に就く。安政4年(1857)勘定奉行水野忠徳に従い、長野でロシアやオランダの使節を応接。安政6年(1859)安政大獄の岩瀬失脚に連座し免職。慶応元年(1865)目付の復帰、再び外交の先頭に立つ。大島友之允・勝安房らと征韓論を唱える。慶応2年(1866)外国奉行となり朝鮮に差遣。徳川慶喜に抜擢され外国総奉行。慶応3年(1867)若年寄に上がって図書頭に叙任。対薩長強硬派だったため鳥羽伏見での敗戦後、徳川慶喜より免職登城禁止となる。明治5年(1872)赦免となり、官途に就かず、氷川神社宮司や日枝神社祠官となり、禊(みそぎ)・淘宮(とうきゅう)・天学・蓮門・儒教・心学など多くの民間の講社を結集し神道大成教を創立。御岳教の別派独立の際はその管長を兼ねる。76歳。著書:「平山省斎遺稿抄」。
墓は、谷中霊園乙9号1側。大きな井上正鉄墓の向かって左隣りで、階段を上がる。隣には子平山成信の墓がある。碑は、墓区画入り口にあり巨大石。乙9号1側は飛び地があるので注意。正面「平山省斎之墓」。