石川千代松(いしかわちよまつ)    安政7年6月6日〜昭和10年1月17日(1860-1935)

    鮎苗放流事業の開拓者。日本での進化論開発者。動物学の創始者。父、旧旗本石川潮叟(周二)(二男)。母、朝川とへ。東京本所出身。維新後、徳川家移封に従い父親と静岡に移住。明治5年(1872)帰郷。伯父の主宰する「進文学社」に入り英語を学ぶ。明治7年(1874)外国語学校に入学。明治12年(1879)東京大学理学部生物学科に入り、初代動物学教授モースに指導を受ける。明治15年(1882)卒業し、動物学御用掛準助教授。明治16年(1883)助教授、モース教授の講義をまとめて「動物進化論」を出版する。明治17年(1884)在籍のまま私費で北里柴三郎・大竹多逸・中浜東一郎と共にドイツに留学。明治22年(1889)10月フランス・イギリス・アメリカを経て帰国。帰国後、東京帝国大学理学部助教授、農学部教授。帝国博物館学芸委員兼務。明治23年(1890)帝国大学農科大学教授。翌年理学博士。各種生物の生殖・発生に関する研究をする。琵琶湖の鮎を東京の多摩川に放流し、当時不可能とされていた鮎苗放流を成功させた。また、山椒魚の研究から淡水魚養殖の開発を企てる。明治39年(1906)オーストラリア・ヨーロパ・アメリカ各地を歴訪。明治44年(1911)学士院会員。大正13年(1924)大学を退職し、名誉教授となる。昭和9年(1934)台北での学会出席先で発病し、現地で没する。彦根市の琵琶湖湖畔に胸像がある。76歳。妻貞子(1869-1916)は、男爵箕作麟祥の長女で箕作俊夫の腹違いの姉。箕作秋坪佐藤泰然とは遠い親戚にあたる。著書:「動物進化論」、「動物解剖指針」。

※ モース:大森貝塚を発見したアメリカの動物学者である。

※ 戸籍では、文久元年(1861)4月6日生れ。人名辞典では、安政7年(1860)1月8日。墓誌では、上記のとおり。

墓は、谷中霊園甲10号3側。五重塔跡地の東側。団地状納骨室のある墓のうち中央上。父石川潮叟(-1880)墓と母朝川との(1827-1913)墓は、甲2号11側にある。石川潮叟墓の題字は、友人であった勝海舟阿波守