石本新六(いしもとしんろく) 嘉永7年1月20日〜明治45年4月2日(1854-1912)
第2次西園寺内閣(明治44〜45年:1911-1912)時の陸軍大臣・男爵。父、姫路藩士石本勝左衛門(六男)。明治2年(1969)姫路藩の貢進生となり、翌年に大学南校でフランス語を学ぶが、軍人を志望して士官学校に転校する。明治11年(1878)軍事研究のためフランスに留学、フォンテンブロー砲工学校に入り、明治14年(1881)卒業し帰国。明治28年(1895)工兵大佐、翌年に工兵課長、明治30年(1897)築城本部長兼砲工学校長。明治35年(1902)陸軍次官、明治37年(1904)中将。姫路城・明治の大修理や初の一般公開に力を尽くした。明治25年(1892)から始まった東京湾口の第三海堡の建設の責任者だったが、難工事だったため竣工は大正10年(1921)となり完成を見ることはなかった。陸軍軍医(1881-1916)であった森鴎外の上官でもあった。森鴎外が石本新六に「しつこい記者がいるが、どのように扱ったらいいか」と尋ねたら「どのようにも扱ってはいけない」と答えたという逸話を鴎外が書いている。明治40年(1907)男爵となる。明治45年(1912)陸軍大臣在任中に病没。子に104歳で亡くなった加藤シヅエの元の夫の石本恵吉男爵がいる。
墓は、天王寺墓地。ぎんなん横丁側。了イ完寺横辺り。正面「陸軍大臣男爵石本新六墓」。