木村正辞(きむらまさこと) 文政10年4月6日〜大正2年4月11日(1827-1913)
明治の国文学者。幼名、清宮荘之助。字、植満。号、欟斎(ふきのや)。とくに万葉集注訳を専門とした。千葉成田市仲町出身。少年の頃より読書と習字を学び、「唐詩選」「百人一首」を会得したといわれる。16歳のとき江戸で伊能頴則(ひでのり:1805-1877)に師事し国学を、寺門静軒(1796-1868)等に漢学を学ぶ。また、岡本保孝(1797-1878)に和漢学及び音韻学を学んだ。この頃木村家の養子となる。文久3年(1863)に和学講談所会頭助役となる。慶応3年(1867)水戸藩駒込文庫に出仕。維新後、神祇官、文部省、宮内省の諸官となり、帝国大学文科大学・高等師範学校の教授にも就任。明治23年(1890)学士院会員。明治24年(1891)文科大学教授。明治26年(1893)に公職を離れ、万葉集の研究をした。明治34年(1901)文学博士。蔵書家で中国で散逸した書籍を収集し、現在その一部は東洋文庫に架蔵されている。また明治23年(1890)設立の皇典講究所による「事類苑」編纂事業の検閲委員でもあった。同年帝国学士院会員。黒川真頼、小中村清矩、木村正辞、内藤耻叟、久米幹文(くめもとぶみ:?-1894)等が講演した皇典講究所の講演録論文として「史学普及雑誌」の客説欄に掲載されている。黒川真頼・小中村清矩・榊原芳野・横山由清と共に明治の5大国学者に数えられる。「海ゆかば水つく屍 山ゆかば草むす屍・・・」を読む(作者は大伴家持)。著書:「欟斎雑攷」「万葉集美夫君志」「万葉集書目」など多数。87歳。正五位勲六等。
墓は、谷中霊園乙12号3側。通路より塀側へ最奥。正面「文学博士木村正辞之墓」。