内藤耻叟(ないとうちそう) 文政10年9月25日〜明治36年6月7日(1825-1903)
国学者。名、正直。号、碧海・耻叟。父、美濃部茂政(二男)。茨城県水戸出身。水戸藩士内藤氏を継ぐ。藩校弘道館で会沢正志斎・藤田東湖らに師事。元治元年(1864)常野戦争で従軍し、天狗党を破る。慶応元年(1865)弘道館教授。慶応2年(1866)藩内トラブルで投獄。許されて自宅謹慎となるも脱藩。会津戦争に参加。明治維新後、明治12年(1879)ころ小石川区長。明治17年(1884)東京大学講師。明治19年(1886)帝国大学文科大学教授。明治22年(1889-1891)陸軍教授を兼任。明治23年(1890)に設立された皇典講究所による「古事類苑」編纂事業に検閲委員として参画。東京小石川で没する。「温知叢書」、「日本文庫」などを編纂。孫に内藤匡がいる。77歳。著書:「徳川十五代史」、「江戸文学史略」。
※ 黒川真頼、小中村清矩、木村正辞、内藤耻叟、久米幹文(くめもとぶみ:?-1894)等が講演した「皇典講究所」の講演録論文として「史学普及雑誌」の客説欄に掲載されている。
墓は、谷中霊園乙13号右6側。墓石は低くサイコロ形。
※ 撤去危惧墓!