小中村清矩(こなかむらきよのり)    文政4年〜明治28年10月9日(1821-1895)

    国学者。明治維新の官制改革に寄与。官職、国史律令などの研究家。号、陽春盧(やすむろ)。父、原田次郎八。江戸麹町出身。子供のとき父母と死別し、従母小中村氏に養われ家を継ぐが、商いを好まず嘉永5年(1852)弟に家督をゆずり国史・律令の勉学に専念。亀田鶯谷(漢学)、村田春野・伊藤穎則(律令)、本居内遠(1792-1855)などに師事。安政4年(1857)和歌山藩校の国学の教授となる。また新宮藩主水野忠央(1814-1865)の丹鶴書院に入り「止戈類纂」の編纂に従事した。文久2年(1862)林大学頭の命で和学講談所の講師。維新後は明治2年(1869)大学中教授・太政官。明治10年(1877)内務省社寺局御用掛となり神祗制度の調査を、太政官の修史館では国史編纂を、明治12年(1879)以後「古事類苑」の編集にも従事した。明治15年(1882)東京大学教授。明治21年(1888)文学博士。また明治23年(1890)設立された皇典講究所の「古事類苑」編纂事業の検閲委員でもあった。黒川真頼小中村清矩木村正辞内藤耻叟、久米幹文(くめもとぶみ:?-1894)等が講演した皇典講究所の講演録論文として「史学普及雑誌」の客説欄に掲載されている。東京学士院会員・貴族院議員にもなった。75歳。

※ 明治23年(1890)のある日、小中村博士の令義解(りょうぎげ)講義のときに、学生の和田万吉が居眠りをし、しばらくして目を覚ますと、博士は怒りもせず「目が覚めましたか、それでは続きをやります」と言ったとか。気宇壮大にして豪放磊落な性格だったようだ。

※ 存世中に墓所を定め、仮に墓標を建て歌を書く。
     ありて世のはては我身をおくつきの処としめし露のたま床

墓は、谷中霊園甲9号8側。桜通り寄り、木立の中。正面「文学博士小中村清矩之墓」。