杵屋六三郎(きねやろくさぶろう)・初世 ?〜享保19年3月18日(?-1734)
長唄三絋の名家。初名、吉之丞。父、杵屋宗家杵屋勘五郎(三男)。慶安年中に中村座に招かれ長唄を奏す。元禄年間に別家として初世六三郎を名乗る。中村座・市村座・森田座の立三味線となる。作曲:「獅子踊」、「跛丹前」など。生誕年が不詳だが、慶安年間には活動していたので、かなりの高齢まで生存したものと思われる。境内に初代の碑がある。
杵屋六三郎・2世 宝永7年〜寛政3年7月28日(1710-1791)
長唄三絃の名手。初名、吉之丞。号、天滴。父、初世六三郎。5世喜三郎の弟。別家して市村竹之丞の楽士となる。森田座で立三味線に昇進。中村兵蔵など多数の相手方を務める。また、松島庄五郎・富士田吉次の三味線方としても活躍。杵屋中興の名人として、"天滴六三郎"と呼ばれる。門下に初代杵屋左吉・初代杵屋正次郎。82歳。作曲:「娘七種」。「天滴斎釈淡淵信士」。本墓は、港区虎ノ門 光円寺。
杵屋六三郎・3世 ?〜文政2年9月11日(?-1819)
長唄三絃の名手。本姓、田中。俳名、天甫。父、小鼓師田中伝左衛門。2世杵屋弥十郎の弟子となる。初名、萬吉、のち2世三郎助、のち3世六三郎。8世杵屋六左衛門に嗣子なく、養嗣子となり9世杵屋六左衛門を継ぐが、間もなく実子胴吉が生まれたため、別家した六左衛門となり、杵屋家は2分する。寛政4年(1792)河原崎座にて岩井半四郎が七変化を演じたとき、初めて長唄は上段に、囃子は下段の雛段にする。さらに演出に工夫し、囃子方にあった積弊を改める。
杵屋六三郎・4世 安永8年〜安政2年11月30日(1779-1855)
長唄三絃の名手。東京出身。父、板橋の旅籠「奈良屋」の主人(二男)。2世杵屋正次郎の門に入る。のち、3世六三郎の門人となる。4世六三郎を襲名し、池之端派を創立。のち、薙髪して初代杵屋六翁を名乗る。作曲:「汐汲」、「勧進帳」、「恋男調松風」、「晒女」、「老松」、「俄獅子」、「三升猿曲舞」、「吾妻八景」、「織殿」、「松の緑」、「寿」、「月の巻」。71歳。「善智院至巖信士」。辞世「濁りなく世をすましけり蓮の露」。
杵屋六三郎・5世 ?〜嘉永3年2月18日(?-1850)
長唄三絃の名手。父、4世杵屋六三郎。初名、六太郎。天保11年(1840)2世杵屋長次郎を襲名。のち、5世杵屋六三郎を襲名。「本帰院種要信士」。
杵屋六三郎・6世 ?〜安政6年8月6日(?-1859)
長唄三絃の名家。4世の養子六之助。6世杵屋徳三郎を襲名するも名著れず。「宝冷院和鳴信士」。
杵屋六三郎・7世 天保3年〜明治12年9月17日(1832-1879)
長唄三絃の名家。杵屋正次郎の門人。初名、長次郎。4世の門弟の初世杵屋六四郎の門弟。のち7世杵屋六三郎を襲名するも名著れず。明治7年(1874)薙髪して2世杵屋六翁を名乗る。48歳。「好音院六翁日遊信士」。
杵屋六三郎・8世 慶応2年〜明治39年1月16日(1866-1906)
長唄三絃の名手。66歳。本墓は、啓運寺にある。詳細はこちら。「清光院六翁日照信士」。
杵屋六三郎・9世 慶応2年〜明治39年9月20日(1866-1906)
長唄三絃の名手。本名、山口新太郎。父、杵屋六翁(二男)。8歳ころから父に習い、11歳で新富座に初出演。明治22年(1889)長次郎と改める。明治26年(1893)杵屋六三郎を襲名。明治座の立三味線として名を上げる。さ41歳。作曲:「熊野」、「二人羽織」、「和歌三神」、「自転車兵」、「不忍池の浮島」。辞世「秋の雨旅の衣をぬらしけり」。「絃好院明教日新信士」。
杵屋六三郎・10世・11世 本墓は、同じ本寿寺墓地にある。詳細はこちら。
墓は、本寿寺。墓地井戸前の通路を入り左側。正面「杵屋徳三郎歴代墓」。