北村季晴(きたむらすえはる)    明治5年4月16日〜昭和6年6月17日(1872-1931)

    作曲家。父、漢学者北村季林。東京都銀座出身。明治学院に入学したが、中退して東京音楽学校に転校し、田中正平の指導下で洋学・邦楽・各流の研究を重ね、明治26年(1893)7月22歳で卒業。在学中校内改革の活動を咎められ、15週間の停学処分を受ける。卒業後は父の意向で父の経営する私塾向南学校を手伝う。明治28年(1895)父が急死し、跡を継いだがうまくいかずに閉鎖となる。明治30年(1897)音楽学校後輩の吉田信太の勧めで青森師範学校教諭となる。その後長野師範の音楽教師の依田弁之助から病気がちで困っているから長野に来てくれと頼まれ、明治32年(1899)12月長野に転任。明治34年(1901)惜しまれて東京に戻る。明治38年(1905)三越音楽部の主任。明治42年(1909)北村音楽協会を創設。その後北村児童演劇協会を主宰。大正6年〜大正12年(1917-1923)東京音楽学校邦楽調査掛。多数の邦楽曲を五線譜に採譜し、邦楽界に貢献した。6代前には俳人の北村季吟がいる。作曲:「『ワシントン』カンタータ三部作」、「お伽歌劇桃太郎の『ドンブラコ』」、「牛と馬」、「鉄道唱歌(北陸編)」、「とんぼ」、「釜山港」、、「露営の夢」、「みなと」など。著編:「中等音楽教科書」全四巻。

墓は、瑞輪寺墓地(谷中4-2-5)。日本美術院裏のメイン通路を行き、加藤シズエ墓のある通路を左に見て過ぎ、すぐ右側の通路を入り5基目左側。墓碑は通路に対して後ろ向き。略歴あり。北村季林墓も同域にある。