松本楓湖(まつもとふうこ)    天保11年9月14日〜大正12年6月22日(1840-1923)

    明治・大正期の日本画家。常陸国河内郡寺内村(茨城県稲敷郡新利根村)出身。父、医師宗庵(六男)。名、敬忠。通称、藤四郎。別号、洋峨、永峨、安雅堂。14歳で江戸に出、鳥取藩絵師沖一峨(いちが)に師事し洋峨と称す。その後谷文晁門下の佐竹永海に師事し永峨と称し、そして安政3年(1856)に楓湖と号を変える。慶応元年(1865)菊池容斎に師事し歴史画を描くなど、画業に専念する。幕末に一時勤皇の志士としても奔走したので勤皇画家とも言われる。維新直後、世間の様態が一変し、非常に生活に窮する。宮内省の注文で「幼学綱要」「婦女鑑」の挿絵を描く。巽画会・日本美術院の創立に参画し、文展創設時には審査員を勤め大正8年(1919)帝国美術院会員となる。安雅堂画塾を開き、門下に鴨下晁湖(かもしたちょうこ。1890-1967)、今村紫紅(いまむらしこう:1880-1916)、速水御舟(はやみぎょしゅう:1894-1935)などがいる。正五位。84歳。代表作に「蒙古襲来図」(六曲一双)、「名和長年奉帝図」などがあり、歴史画を得意とした。

墓は、全生庵(谷中5-4-7)。本堂裏へ回り中程。正面「松本家累代墓」。「安雅堂楓湖敬忠大居士」。大槻如電撰文の碑がある。