三輪信次郎(みわしんじろう) 安政元年8月〜昭和18年10月19日(1854-1943)
衆議院議員・第十五銀行重役。父、金沢藩下級士族三輪伝作(二男)。石川県金沢出身。金沢藩明倫堂に学ぶ。のち慶応義塾に入るが、学費が続かず、大蔵省の官費生に応募し1等合格。同期に田口卯吉・島田三郎がいる。1年半後に大蔵省出仕。のち第十五銀行頭取の池田章政に翻訳を依頼され、これを縁に十五銀行に入り、累進して取締役になる。明治28年(1895-1902)「護国経」を著わし、世に知られるようになった。明治34年(1901)「公民会」を設立。明治36年(1903)第8期衆議院議員、以後5回当選。第9期では、大石熊吉・鳩山和夫・田口卯吉・福地源一郎らと当選。明治39年(1906)島田三郎・小川平吉・河野広中らとともに「猶興会」を結成し、第一次西園寺内閣を批判。大正3年(1914)12月解散を機に政界を引退。それまで趣味の範囲であった琴曲の研究を行う。日露事件の功績で勲四等、のち勲三等。大日本パイラー織布会社代表・凸版印刷会社相談役。山田流箏曲研究会長。90歳。
墓は、谷中霊園 乙10号10側。正面「三輪姓世々之墓」。「真如院松風寿徳日信大居士」。