宮城浩蔵(みやぎこうぞう) 嘉永3年2月8日〜明治26年2月13日(1850-1893)
明治大学創立時の3名のうちの一人。天童藩士。父、出羽天童藩医武田直道/玄玄(次男)。慶応元年(1865)同藩の宮城?治(?:王偏+龍)の養子となり、藩校「養生館」に学ぶ。戊辰戦争では、同藩の吉田大八の下で従軍。明治3年(1870)に上京し箕作秋坪の英語塾である「箕作塾三叉舎」に入門。ついで新政府の貢進生となり、大学南校に学ぶ。明治5年(1872)新設の司法省明法寮に入り、ボアソナードにフランス法を学び、卒業。同期生に岸本辰雄・加太邦憲・栗塚省吾がいる。明治9年(1876)官命でフランスに留学。パリ大学、リヨン大学卒業。明治13年(1880)帰国。法律学士。明治14年(1881)東京裁判所判事、ついで司法省検事・司法省参事官等を歴任。傍ら、明治14年(1881)1月岸本辰雄、矢代操と共に明治法律学校設立。初代教頭。明治23年(1890)衆議院議員。正六位勲六等瑞宝章。44歳。著書:「日本刑法講義」、「刑法正義」、翻訳「法理学講義」など。
墓は、谷中霊園乙7号4側。ひょうたん横丁側。写真で明らかなように墓石に彫ってある生誕日と享年が説明板の日付と異なる。明治大学に確認したところ役所の記録に合わせた「大学の見解だ」そうだ。そういった種類の話ではないのだが、ミスを認めない体質かも。正面「正六位勲六等宮城浩蔵墓」。