中口穂山(なかぐちすいざん)/中口秀平(なかぐちしゅうへい)    文政8年〜明治17年5月15日(1825-1884)

    幕末明治初期の医師。名、秀平。号、穂山。父、中口寛助。母、渋谷氏。紀州新宮(和歌山)出身。幼年時より学を好み、17歳で京都で医学を学び、山陰・山陽を遊歴。長崎に赴き理化学を学ぶ。安政元年(1854)帰郷して紀伊新宮藩第10代当主水野忠幹(ただもと:1838-1902)侯に仕える。知遇を受け慶応元年(1865)和歌山で医業を開業。維新の初め藩政に参与。廃藩で東京に出る。視力が衰え東京府医会会長。佐藤泰然の子松本良順・大島圭介・陸奥宗光・北畠道龍らと親交をもつ。60歳。

墓は、長明寺墓地(谷中5-10-10)。鐘楼横を入り、約30m左側。正面「中口家累代墓」。三宅猶之丞(三宅高寛参照)撰文・広群鶴刻の大きな碑がある。